祝 創立100周年 わが青春を語る① 戦争の中の中学時代

矢島久和(中18回4年制)(フレックスジャパン株式会社・相談役)

 1941年、私は屋代中学に入学した。その年の12月8日に太平洋戦争が始まった。終わったのが1945年8月15日、陛下の玉音放送で無条件降伏したのであった。だから、私の中学生時代は戦争で始まり戦争で終わっている。
 普通に教室で勉強できたのは2年生までである。3年生になると、農家へ手伝いに行ったり菅平に開墾に行ったりした。その時、力のある友達が私の隣で私の分
まで手伝ってくれた。大本営工事のモッコ担ぎや「どぶら」の埋め立てにも動員された。「どぶら」は昔千曲川の氾濫で出来た大きな池である。埋め立ての終わり
になると、池の魚が一杯寄り集まってきて壮観だった。特に大きな鯰が目についた。
 屋代中学で忘れられない先生は長谷川五作先生(生物)と淡中益郎先生(校長・数学)である。この両先生に教わったことは私の生涯の宝である。
 3年生の夏から秋にかけて三ヵ月間、木曽の山奥の発電所工事に動員され飯場暮らしをした。午前一回午後一回発破がかけられ、建物の陰に隠れて、飛んでくる破片を避けた。男らしい仕事だと思った。
 当時の中学校は5年制で、4年が終わると上級学校を受験できた。目的の学校に入れなかったら中学に戻って5年生になればよかった。だから浪人しなくて済んだのである。ところが、私の時には戦争末期で4年生で総て打ち切りとなってしまった。私は或る専門学校へ入ったが、学校へ行くこともなく、横須賀の海軍工廠へ動員となったのだった。
 4月半ばの夜、対岸の川崎重工業地帯に大空襲があった。横須賀から見ると、海を挟んで本当に目と鼻の先である。明日は我が身が生きて帰れるか、海軍工廠は一番狙われる所だからそんな覚悟をした。
 8月15日、陛下の玉音放送を横須賀で聞いた。その私が93歳になった。私は今、生きている。

訃報 矢島久和氏は、この玉稿をお届けくださった直後の1月30日、老衰のためご逝去になられました(4面参照)。ご寄稿に感謝を申し上げ、心よりご冥福をお祈り申し上げます。