祝 創立100周年 わが青春を語る② 良き恩師・友に恵まれ夢をはぐくんだ高校生活

信州大学副学長・工学博士 天野良彦(高30回)

信州大学副学長で工学部長(学術研究院工学系長)の要職にあられる。生物機能科学がご専門で、地域におけるバイオマス資源を有効利用するための技術開発分野の第一人者。

 高校を卒業して、今年で45年が過ぎようとしている。長いようであっという間の出来事であった気もするが、高校時代の良き思い出が今の自分を作ってくれたように思う。とにかく高校時代は楽しかった。部活に麻雀、友人との駄弁り、それらのすべてが楽しくて、高校へ通うのが毎日励みとなっていた。
 まず、部活はバスケット班で、毎日練習に明け暮れた。顧問は山浦先生で、熱血な指導が今も思い起こされる。〈註1〉県大会の準決勝で延長の末負けはしたが、最高身長の生徒が180㎝に満たないチームが、190㎝台の選手がいるチームに勝つことができたのも、先生の考案した頭脳的なフォーメーションプレーのおかげであったと思う。自分はベンチウォマーであったが、部活がなければ高校生活は寂しいものであったであろう。
 また、インターハイに出場経験のある先輩方も練習を見に来ていただき、指導して頂いた。これも屋代高校の良き伝統であったと思う。自分の担任の宮入先生は数学の教科担当であり、熱血指導を頂いた。先生のお宅にも何度か遊びに行かせて頂き、卒業後もかわいがっていただいた。ただ残念なことに、先生は次の赴任校での指導中に現役でお亡くなりになられた。とても驚き悲しみのうちに、葬儀に参列させて頂いたことを記憶している。
 最後に、現在自分は大学で研究生活を送っているが、わが研究のルーツは屋高にあったことを知り、とても驚いた。キノコ菌のたんぱく質(酵素)の研究を行っているが、キノコの人工栽培技術を開発した長谷川五作先生や、私のボスのそのまたボスの西澤一俊先生〈註2〉も屋代高校のOBであった。本当に屋代高校のOBで良かったとつくづく思う次第である。

〈編集室・註〉
(1)  昭和40年代後半からのバスケットボール班は、山浦正孝先生の好指導により、県高校総体2連覇を遂げるなど、強豪チームとして活躍した。
(2) 西澤一俊先生
 塩崎村のご出身で、旧制中第2回の御卒業。東京教育大学(筑波大学の前身)理学部植物教室教授を務められた。旧制中時代、高等師範の理科を受験することは決めていたが、何学科を選べばよいかわからなかったので、長谷川五作先生に相談に行くと、「理科をやるなら、生命をもつ生物をやれ。」と言われ、進路を決めたことが書かれている。(『長谷川五作先生著作選集』(昭和43年、同窓会編)