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特別寄稿 メタセコイアの思い出

大田直道(高11・前橋市在住)
 屋代高校正面玄関脇に聳えるメタセコイアについて、本紙をお借りし述べさせていただきます。私が入学したのは昭和31年4月です。この入学を期に父(大田繁則)は、自宅に育つメタセコイアの枝を挿し木した二年生の苗を生物学教室の馬場順一先生(私の恩師)に贈呈しました。馬場先生はその苗を中庭に植えましたが、十数年後に私が母校を訪れた時には本館生物教室の南に移植されてすくすくと育っていました。それが現在の位置です。樹齢は今年で61年になります。
 去年5月14日に開催された高校十一回生の同窓会の席で級友とこの件を語り合うことができ、益々当時が懐かしく思い出され、感無量となりペンを執った次第です。
 自宅にこの木の親木となったものが東京大学理学部の原寛博士より送られてきたのは、昭和26年4月12日のことでした。それは、父が長野市茶臼山でメタセコイアの化石を発見(昭和25年9月)したことが学界に知られたからです。二本送られてきたものの一本は自宅の庭に植えられ、もう一本は須坂市にお贈りしました。須坂市は原博士のご出身地だと聞いております。それが現在臥竜山公園に茂っているメタセコイアです。
 メタセコイアは白亜紀後期に出現して以来、現在まで約一億年間、ほとんど形態的に変化せず、種分化もしていません。つまり進化をせずに生きてきたのです。古生物学者三木茂博士が昭和16年に発表した「Metasequoia」の論文は、この植物が化石としてしか知られていなかったことを物語っています。絶滅したと思われていたこの植物はその後、中国の学者が四川省萬県磨刀渓で生存していることを確認し、世界を驚かせました。そして「生きている化石植物」と呼ばれるようになりました。
 中国から日本に送られてきた種子を原博士は昭和24年3月に播種し、それが一ヶ月程して発芽したのです。日本列島にざっと百万年ぶりに芽生えた第一号のメタセコイア―その子孫が母校の玄関脇にあるというわけです。
 「三木博士と父は同年生まれたりメタセコイアと吾が名も同年」―メタセコイアを愛された昭和天皇と三木博士、そして私の父は明治34年生まれ。メタセコイアという名前と私の名「直道」は昭和16年生まれです。メタセコイアは優しい葉を纏いながら心は強く生命力に満ち、容姿が美しい不思議な木です。
 本校で教鞭を執られた長谷川五作先生は生物学、遺伝学の研究で著名な方ですが、同窓会発行の「長谷川五作先生著作選集」の中で遺伝学の篠遠喜人博士が「長谷川五作先生をたたえる」と題した序文を寄せられ、そこに山﨑林治氏及び大田繁則の名前を記し、「二人が書いた文によって信州が、日本の遺伝学のあけぼのに、なんらかの役割を果たしていることを知った」と記しています。このことにより一層本校との親近感を抱いています。
 結びに、本校の諸先生方と在校生及び各分野でご活躍の先輩諸氏、また後輩諸氏がこのメタセコイアを見上げる時、この一文を思い出していただければ大変嬉しく思います。また、メタセコイアがこのように元気に育つ環境を整えられてこられた皆様方に重ねて感謝申し上げます。( 平成27年10月吉日)