会長あいさつ

理数科 30 周年、附属中 10 周年を祝う 「ケネデイ校長」(伊沢集治先生)のこと(その四)

会長 赤地憲一 (高17回)

 令和5年が明け、母校が創立100周年を迎える年になりました。会員皆様とこの時を共有できますことを光栄に存じますと共に、「コロナ」の状況下にもかかわらず、母校並びに同窓会のために格別なご支援を賜り、心より厚く御礼を申し上げます。
 さて、母校の創立100周年行事と併せて、理数科設置30周年と附属中開校10周年行事についても、これを周年行事に加えて実施したい旨、お願いをして参りましたが、この度挙行することができました(第1面、3面に報告)。理数科につきましては、ご承知のとおり、前会長宮﨑和順先生が県教育長時代(平成3年)、当時の県高校教育の課題であった「特色ある学校つくり」の一環として、第21代戸田正明校長が(在職中に(平成元年~3年)教職員をまとめて、導入されました。
 また附属中は、平成9年の中教審答申を受けて、「6年間継続した学習の中で、学力の充実と知性の啓発、情操豊かな感性の育成」等の理念のもと、第28代堀金達郎校長先生時代に(平成19年~22年)県下初となる中高一貫教育として誕生しました。以来、県と学校関係者の格別なご支援により、共に発展を遂げておりますことは衆目の一致した評価と存じます

 我ら高14回~高19回生世代の共通の恩師とも言うべき、第10代校長・伊沢集治先生(註1)について書かせて頂いておりますが、今回はクラブ活動における「生徒愛」です。伊沢校長は、前号で「その演説は、音吐朗々とし、巨腹から出る声は、マイクなしで、講堂の隅々までビンビンと響いた。」と書きましたが、その中でも、昭和39年秋の柔道班の活躍を讃える講話は、卒業生の記憶に残ります。当時の2年生柔道班員の柳澤久氏(註2)の懐旧談です……「県高校新人柔道大会では北信で優勝し、県大会では準優勝を果たしたが、その県大会に伊沢集治校長先生が穂高商業高校まで応援に来られたのです。準優勝を遂げると、翌月曜日の全校集会で柔道班の活躍を讃えられた。」この熱情的な講話は60年前のことになるが、自分にも鮮烈な思い出として蘇ります―「本当に良くやった、本当に嬉しかった」という言葉は、講堂の窓ガラスにビンビン響きました。それにしても、単身赴任中、週末に下伊那のご自宅に帰らず、自家用車もない時代、穂高商業高校まで足を運ばれた伊沢校長を偲ぶ者です。

 新たな変異株の感染が予断を許さない中、会員皆様のご健勝と益々のご活躍をお祈りして、また今後とも母校へのご支援をお願い申し上げて、ご挨拶といたします。

(註 1)伊沢集治校長(下伊那郡鼎町出身、旧制飯田中学第27回、東京文理大〈筑波大学の前身〉卒、昭和43年松本深志高校長から第5代長野県教育長に就任、同47年退任。)
(註 2)柳沢久氏(高18回)、高校時代は軽量級で県優勝、進学した東京教育大学(筑波大学の前身)体育学部では4年次に主将として、70キロ級で全日本学生で準優勝。その後電気通信大学教授の傍ら、日本の女子柔道界に道を切り開いたパイオニアとして著名。ソウル五輪(1988年)等では監督を務めた。現在、電気通信大学名誉教授、講道館8段、同評議員

三年ぶりの総会開催に感謝申し上げます 「ケネデイ校長」(伊沢集治先生)のこと(その三)「師弟愛」

会長 赤地 憲一(高17回)

 国際状況が落着かないところではございますが、会員皆様にはご清祥の段、お慶びを申し上げます。「コロナ」の状況下にもかかわらず、来年に控えた100周年記念事業につきましてお願いを申し上げましたところ、早速、各位には格別なる御協力を賜っており、心より厚く御礼を申し上げます。
 さて、この2年間、新型肺炎の感染状況にかんがみ、定期総会については、変則的な開催をお願いして参りましたが、今年度は去る5月、支部長・理事の皆様70余名のご出席を賜り、開催できましたこと、心より感謝を申し上げます。議案では、100周年記念事業に向けてご審議をいだき、報告等では、ロシアの蛮行に対して、ウクライナの隣国ポーランドで国際貢献に尽力される坂本龍太郎氏(高56回)、及び先の冬季オリンピック出場の小島良太選手(高69回)からのメッセージを頂戴しましたこと、併せてご報告申し上げます。

 高14回~高19回生世代の共通の恩師とも言うべき、第10代校長・伊沢集治先生(註)について書かせて頂いておりますが、今回は、伊沢校長と宮坂直章氏(高16回、昭和49年ご逝去=29歳)との師弟愛についてです。
 伊沢校長は、生徒会長としてリーダーシップに富む宮坂氏を、折に触れ全校集会等で称賛されておりましたが、確かに彼には、爽やかな弁舌と熱情が備わり我ら後輩を叱咤激励されました。宮坂氏は弁護士になる道を選んで早稲田・政経に入学、訪れたロバート・ケネデイ司法長官(1925―1968年)の講演に感銘を受け、アメリカの司法制度を学ぶため留学を決意します。これを知った伊沢校長は「渡航費用は私が負担しよう。」と激励します。「我が家の経済状況を承知されて、温かなお言葉であったと思い、今でも頭が下がります。」と、実姉・竹内菊栄氏(80歳)の懐旧談です。宮坂氏は、伊沢校長の恩に報いるためにも、法務省東京法務局に勤務をしながら、留学準備を進めておられましたが、病魔におかされ、29歳の若さで他界されてしまいました。返すがえすも残念でなりませんが、彼の遺志を継いでいるのが、現在弁護士として活躍中の北村晴男氏です。北村氏は、直章氏の母系親族にあたり、10歳上の直章氏を中学生のころから慕い、「直章ちゃんのようになる。」と法学部に進まれました。その後のご活躍は、衆目の一致するところです。

 新型肺炎感染について明るい兆しが見える中、会員皆様の切なるご健勝、益々のご活躍をお祈り申し上げますと共に、今後とも100周年事業等へのご支援をお願いしてご挨拶といたします。
(註) 伊沢集治校長: 下伊那郡鼎町出身、旧制飯田中学第27回・東京文理大〈筑波大学の前身〉卒、昭和43年松本深高校長から第5代長野県県教育長に就任、同47年退任、平成4年ご逝去。

小島良太選手の冬季オリンピック出場を讃える 「ケネデイ校長」(伊沢集治先生)のこと(その二)

会長 赤地 憲一(高17回)

 令和4年を迎え、会員皆様には、益々ご清祥の段、心よりお慶びを申し上げます。「コロナ」の状況下にもかかわらず、母校並びに同窓会のために格別なご支援を賜り、心より厚く御礼を申し上げます。令和4年が明け、創立100周年の節目も来年になりましたが、実行委員会を立ち上げ、学校とPTAと同窓会による3者の連携を確認したところでございます。「100周年史」、「会員名簿」の編集も順調に運んでおりますことをご報告申し上げます。
 さて、新年になり、2月に開催される北京オリンピックに、小島良太選手(高69回)が、その代表選手入りという快挙の報に接しました。スピードスケート1、000mですが、既に高校在学中、インターハイで4位、国体で2位入賞を果たし、信州大学教育学部に進学されてからは、2年生でその年の国体において、平昌オリンピック(2018年)で5位入賞の小田選手を抑えて優勝するなど、逸材と言われてきましたが、この度の代表選考会で見事にその実力を発揮され、1分8秒35の日本最高記録で優勝を飾りました。小島選手のこれまでのご精進に心より敬意を申し上げますとともに、創立100周年を翌年に控え、時宜を得られた快
挙を共に喜びたいと存じます。

 我ら高14回~高19回生世代の共通の恩師とも言うべき、第10代校長・伊沢集治先生(註1)について前号で書かせて頂きましたところ、さっそく先輩諸氏からお便りをいただきました。まず、書家・川村龍洲氏(驥山館々長・高16回)からは、高校3年時の思い出を承りました。県書道展で最優秀賞の栄に輝いたところ、さっそく伊沢校長からお呼びがかかり「この書を君の筆で書いてほしい。」と言われ、廣瀬淡窓の「道ふを休めよ他郷苦辛多しと・・」で始まる一節を差し出されたそうです。数日後に完成させてお届けに上がったところ、渡された熨斗袋にはピン札5 0 0 円が入っていたそうで、「当時の授業料月額が600円であったことを思うと、大層な高額であった。本当に感激した。」と述懐されています。伊沢校長は、ご自身の学生時代の親友のことを度々校長講話でお話になられたことから、この句を選ばれたものと推測している者です。

 新たな新型肺炎感染で予断の許さない状況の中、会員皆様のご健勝、益々のご活躍を切にお祈りして、また今後ともご支援をお願い申し上げ、ご挨拶といたします。
(註 1)伊沢集治校長(下伊那郡鼎町出身、旧制飯田中学第27回・東京文理大〈筑波大学の前身〉卒、昭和43年松本深高校長から第5代長野県教育長に就任、同
47年退任。)

 

活気あふるる母校に敬服 「ケネデイ校長」(伊沢集治先生)のこと(その一)

会長 赤地 憲一(高17回)

 令和3年度を迎え、皆様には、「コロナ」の状況下にもかかわらず、母校並びに同窓会のために格別なご支援を賜り、心より厚く御礼を申し上げます。
 まずは、本年度総会が新型肺炎の感染状況にかんがみ、規模を縮小して開催させていただきましたこと(支部長のみ)ご了承賜りたく存じます。ご報告として、令和5年に迫った100周年記念事業について、本紙74号にて工程表でご提案したものが、また、名誉会員として、別掲載の南澤道人氏(中18―5回)、中村浩志氏(高17回)が承認いただきましたことを申し上げます。
 さて、母校の令和3年度は、大学等進学実績での更なる躍進(「ユース版」参照)で明けましたが、続いてスーパーサイエンス校として、平成15年度に指定されて以来、連続5期20年間の認定が文科省から認められることになりました。高澤邦明校長先生はじめ、ベクトル方向を同じくして、生徒たちに良きご指導いただく先生方に、心よりの敬意とお慶びを申し上げる者です。
 高校総体・文の県大会関係でも、ハンドボール、テニスという伝統的な班は、さて置き、弓道をはじめ6班が、県優勝、代表の栄冠に輝きましたし、サッカー班においては、「強豪私学6校+公立2校」でのベスト8の仲間入りを果たしました。

 古希の半ばを歩む我々の世代(高14回生~19回生)が高校時代を顧みる時、まず想い出される恩師がいる。第10代校長・伊沢集治先生です(写真・註1)。在任は昭和36年~40年度の4年間ですが、一度でも伊沢校長の講話を耳にした者には、強烈な感動が残ったことから、着任時の三年生が高14回生、先生転出時の1年生が高19回生であるので、その思い出は、6世代約2千名に及ぶ少年達の心に刻まれた。「伊沢校長のニックネームは『ケネデイ』と言った。当時のアメリカ大統領J・Fケネデイにその風貌が似ていたからだが、その歩く姿は威風堂々と、音吐朗々とした演説はマイクの施設があるにもかかわらず、使わず、旧講堂の隅々までその巨腹から出る声がビンビンと響いた。」(註2)。我ら世代を代表としてしばらく、伊沢校長について書いてみたい。

 新型肺炎感染で予断の許さない状況の中、会員皆様の切なるご健勝、益々のご活躍をお祈りして、ご挨拶といたします。
(註1) 伊沢集治校長(下伊那郡鼎村出身、旧制飯田中学第27回・東京文理大〈筑波大学の前身〉卒、昭和43年松本深高校長から第5代長野県県教育長に就任、同
47年退任)
(註2) 『屋代高校60年史』692頁

「人と人との繋がりの中でしっかり生きていこう」(南澤道人貫首) 教育者としての長谷川五作先生(その十)

会長 赤地 憲一(高17回)

 令和3年(2021年)を迎え、会員皆様にはご清祥の段、心よりお慶びを申し上げます。日頃は母校のために格別なご支援を賜り、心より厚く御礼を申し上げます。
 さて、コロナウイルスの感染拡大が止まりません。折しも、南澤道人氏( 中学18回、93歳)が曹洞宗最高位の管長、並びに大本山永平寺(1244年創建)の貫首に就任されたことが、報道で大きく取り上げられました。この非常時にあたり、曹洞宗管長のお考えに関心を持っておりましたところ、幸いにもご見解を拝聴する機会に恵まれました(電話談)。「地球の大地から宇宙に至るまで、すべての生命が生きているという自覚の中で、自分も他人も互いを尊び、一人一人のつながりを大事に、しっかり生きていこう。」と仰せられました。
 新型コロナが武漢の風土病で終わらなかったのは、グローバル化の負の遺産とも言うべきものです。それゆえ、現代は新興感染症が出現しやすい状況にあり、同時にその対応が自国優先になりがちな現況もありますが、国際協力が最善の解決策であると、南澤道人氏は指摘されたものと存じます。



 教育者としての長谷川五作先生(母校勤務: 大正12年・1 9 2 3 年~ 昭和30年・1955年)について書かせて頂いておりますが、今回は、坂城支部総会(平成30年5月)と上田支部総会(令和元年7月)でお聞したお話です。
 中沢巳木氏(高4回・坂城支部)は、「現在、葡萄2反歩とバラを作っているが、農学校で学ばなかった自分にこれができるのは、長谷川先生から生物学の基本を教えていただいたから」と述懐されておられました。また、岡沢今朝仁氏(高6回・前上田支部長、令和2年8月ご逝去)は、在学中ご自宅庭のケヤキの木に産んだ鳩の卵を持って長谷川先生のところに赴くと、先生は「鳩のヒナを育てることは極めて難しい。もし君が育てられたら生物の評価点5点をあげよう。」と言わ
れ、同時に「鳩の餌はヒトの唾液を混ぜて与えるように」と指導されたとのことです。生徒会誌『ことだま』(昭和8年刊)の中でも、長谷川先生は「親鳩の胃中から出る消化液は、ヒトの唾液でも代わりになる」と記述されておられます。


 新型肺炎感染で予断の許さない状況の中、会員皆様の切なるご健勝、益々のご活躍をお祈りして、ご挨拶といたします。

屋高生・3年生の皆さん 最悪の場合にもベストを尽くそう

会長 赤地憲一(高17回)
 会員皆様には、新型肺炎の感染禍の中、まずはご自愛のほど心よりお祈り申し上げます。日頃は母校のために格別なご支援を賜り、心より厚く御礼を申し上げます。
 さて、現在世界は、ジャーナリストの宮下洋一氏(高46回・註1)が「スペイン死者2万人―涙すら出ない」と『文芸春秋6月号』に、9頁にわたり詳述されているように、世界的パンデミックの渦中にあります。
 文部科学省も学校も保護者も、誰も経験したことのないウイルスとの闘いで、誰も正解を導き出せない出来事に、今の高校3年生が直面している現実に、心からお見舞いを申し上げます。
 甲子園大会や高校総体、総文祭関係行事は、是が非でも開催して欲しいと願っていました。試合に敗れて甲子園を諦めるのではなく、戦わずして去る……『ペスト』(1947年)でカミュが書いている「不条理」の世界がここにあり、自分が被害者のように感じられることもあるでしょう。
 この試練は、将来いずれ、自分の力を発揮する時に、必要になるでしょうが、今、
18歳皆様に贈る言葉としては、冒頭の「最悪の場合にもベストを尽くす」です。これは自分が高校1年生の時に、保健体育を教えて頂いた藤本勝彦先生(註2)の言葉で、人生訓・金言がちりばめられた授業の「藤本先生語録」の中の一節、自分も爾来60年間、折に触れ励まされてきました。
 先生は、常に最悪の状況を想定して陸上競技を指導されておられました。例えば、昭和52の長野インターハイで、山浦弘子さん(註3)は、走り幅跳びで4位入賞という大金星を成し遂げましたが、この背景には、藤本先生の指導――放課後の練習で、雨が降る度に、堀内選手を長野市陸上競技場に連れて行かれ、雨の中で跳躍練習をさせ、「最悪」に備えられていました。そしてインターハイ当日は、まさに雨降りの日になり、堀内選手は「他の選手が調子を崩す中、自分は普段どおりの力が出せた」と述懐されています。
 我々は、今まで科学や医学は常に発展していくという幻想を持ち過ぎました。これほどまでに不確実な時代に住んでいて、不測の事態が起こると、教育、経済、医療を含め社会全般に、とてつもない影響を及ぼすことを知らされました。
 結びにあたり、会員皆様のご健勝をお祈り申し上げますとともに、非常時ではございますが、同窓会に変わらぬご支援とご鞭撻をお願い申し上げ、ご挨拶とさせていただきます。なお、「教育者としての長谷川五作先生(その10)」は、紙面の都合で次号に回します。

(註1)篠ノ井東中出、平成30年(2018年)「安楽死を遂げるまで」が「講談社ノンフィクション賞」に輝き、本同窓会のThePeople of the Year賞を受賞。
(註2)本校在職:昭和37年~同55年。昭和41年の県高校総体・北信越高校総体の総合優勝や11連続インターハイ出場等の好指導により、日本陸連による平沼賞を受賞。
(註3)旧姓堀内弘子、記録は5メートル54センチ(滝沢知寛「戦後の陸上競技班」『屋代高校60史』)。現在、小諸東中学校勤務

宮﨑和順 名誉会長を悼む

会長 赤地 憲一(高17回)
 宮﨑名誉会長は、高校第3回のご卒業で東京教育大学(筑波大学の前身)を卒業後、県教育界に入られ、高校教育課長等を歴任後、平成3年に教育長に就任。同5年10月に退任されたが、ひき続き2期8年の教育委員のうち7年間を教育委員長として手腕を揮われた。退任後、平成15年から10年間同窓会長としてその発展に貢献された。同14年文部科学大臣表彰、同15年勲四等瑞宝章受章。令和元年8月8日ご逝去、87歳。
 にわかに宮﨑和順先生の訃報に接し、愛惜の情、きわまりないものがございます。八十七歳というご長寿とは申せ、長野県教育界にとって特別な存在の先生でございますので、まだまだご指導をいただけるものと信じておりました。生者必衰とは申せ、人生の無常を嘆かずにはおられません。先生の教えを受けた者が等しく感銘し、敬慕するところは、厳しさの中にも、深くて広い心をお持ちで、温かさの中にも、確固たる教育信念のもと、卓越した者への期待感が込められておられたこと、まさしく、偉大なる教育者でございました。
*
 先生は、昭和32年に東京教育大学理学部数学科をご卒業され教育界に入り、野沢北高校(4年)、静岡県清水東高校(2年)、飯田高校(6年)、松本深志高校(8年)と、20年間数学教師として歩まれました。松本深志高校で先生の教えを受けられた第28代屋代高校長の堀金達郎先生は、「毎時間、先生が出される手作りプリントの莫大な量に圧倒され続けた。」そうでございます。また、ガリ版鉄筆の時代、「お顔に似合わず文字がきれいだった。」(田中正吉・元松本深志高校長)そうで、夏休み中も熱心にご指導をしていただいたと述懐されます。
 こうした教育者宮﨑和順先生に影響を与えた人に、大学時代の恩師で、一昨年(2017年)91歳で亡くなられた、イリノイ大学名誉教授・数学基礎論の竹内外史先生がいらっしゃいます。宮﨑先生が、大学2年生の最初の授業に遅刻をしていったところ、竹内教授は、「Easyのものの中にこそ本質がある」と、遅刻を叱責されましたが、1年後専門ゼミを選択する時になると、竹内先生の方から「私のゼミに来ないか」との温かなお言葉があり、これを契機に、先生は終生師と仰ぎ、研究室では囲碁を教えていただいた逸話は、心に残っておりますところです。
 それまでの20年及ぶに、学校現場でのご活躍から、先生は昭和52年、長野県教育委員会教学指導課の指導主事に抜擢されました。後の平成13年から県教育長を務められた斉藤金司先生は、「教育行政という言葉があるが、宮﨑先生は、それを支える教師としての力が大きく、子供たちを思う根っこのところが大きかった。」と評され、また、平成18年から県教育長を務められた山口利幸先生は、「宮﨑先生は、高校教育課長時代を含めて、生徒指導、学力問題、国旗国歌、生徒の急増期にあたり5校の新設校開設、飯田高校事件等、難題がいくつもあったが、先生の教育哲学は、『自由と平等のバランスを絶妙にとられた教育行政』であった。」と言われたことがあります。例えば、隣接学区から入学を認めることになった「10%条項」は、通学区制という平等性と10%の枠という自由性であり、また高校入試の判定資料として昭和50年代に先生が導入された「相関図方式」も、学力検査の点数という平等性と、受験生をもう一つの物差しで測る自由性であり、数学を教育行政に生かされた、その慧眼にはただ敬服するばかりです。
 一方、各学校の課題について、先生は高校教育課長時代(昭和62年~64年)本県教育の課題を「学校経営の弾力化、個性化」「基礎学力の向上」と捉え、これを具現化する形で、昭和63年に、特色ある学科、学校の新設に取り組まれました。そして、平成3年に教育長に就任されると、翌年には県下初の専門学科として、屋代高校に理数科、飯山南高校に体育科を開設したのでございました。
 屋代高校同窓会においては、宮﨑先生は、平成15年から10年間にわたり、同窓会長として、屋代高校と同窓会のご発展にご貢献されました。この間、文化講演会「屋高フォーラム」の立ち上げは平成16年、シンポジウムの立ち上げは平成19年でしたが、私としては、10年目を迎えた頃から、「そろそろこの辺で・……」と考えることもありましたが、その都度宮﨑先生は、「おい、これはいい企画だ。続けろや」と、激励して下さいました。本年で16回、このように長く続いているのも、また、創立以来課題となっておりました同窓会館建設も、先生の御熱意が実り、一昨年(平成30年)3月に完成式典を行い、記念講演として、先生には「神秘律の証明」という「代数学」にかかわるご講演を賜りました。難解なご講演でしたが、ご満悦な先生の表情に、我々は、多少とも恩返しができましたものと、安堵を覚えたものでございます。
 先生には、宮﨑家の家門の繁栄を目のあたりにされ、先生はこのように数多くの人々の敬慕のうちに天寿を全うされましたことは、人を大切にされた先生らしく、大往生であられました。
 奥様の順子様はじめ、ご親族皆様には、一日も早く先生のご他界の悲しみから癒されますように、今ここに、宮﨑和順先生の御遺徳をしのび、つつしんでご冥福をお祈り申し上げますとともに、御家族、ご親族皆様の今後の益々のご発展を見守っていただきますよう、また屋代高校はじめ、長野県教育全体の発展をお導き下さいますよう、お願いをして、お別れの辞とさせていただきます。どうか安らかにお休みください。
合掌。

栄えある母校の躍進を祝す

教育者としての長谷川五作先生(その九)
会長 赤地憲一(高17回)
 令和の新しい時代を迎え、会員皆様には益々ご清祥の段、心よりお慶びを申し上げます。日頃は母校のために格別なご支援を賜り、心より厚く御礼を申し上げます。暑さ厳しいこの頃、鳩陵会館完成時に植樹した、ヤマボウシやアベリアが、昨年来の厳しい冬を乗り越えて根づき、その木々のつくり出す涼を有難く思う時でございます。
 鳩陵会館の完成を記念してスタートした講座「結婚相談」は、この事業に長い歴史を持つ2つの旧女子校から昨年度、講師を招いて研修をおこない、我が鳩会としての方式「マリーメイト鳩の会」としてとして立ち上げました。第1回目を去る5月6日に開催しましたところ、この「親による代理婚活事業」方式は、予想を超え盛況で、参加者からの評価も高い中でスタートができましたこと、関係者皆様に感謝を申し上げます。
 もう一つの公開講座「法律の無料相談」につきましては、同窓会の柳沢修嗣副会長(平成29年度・県弁護士会会長)に弁護士の選定やその方法等をお願いして、来る9月7日を皮切りに、年度内に3回の開催を予定しております。皆様にもご案内を申し上げます。
 母校の現況で特筆すべきは、今春の大学進学実績です。今年の大学入試センター試験は、1月20日に終了しましたが、その直後から、県内教育関係者の間で話題になったのは、屋代高校生の頑張り、その結果に注目が集まりました。その勢いは、大学入試が終わる3月中旬まで続き、予想された通り、見事な結果となって結実したのでございます。普通科・理数科・一貫生それぞれの生徒達、とりわけ普通科生徒の頑張りが目についたと、高澤校長先生はじめ関係者から承り、三者がお互い切磋琢磨する中で、実力を伸ばして行ってくれたものと存じます。
 一方、卒業生の活躍にも注目すべきものがあります。宮下達朗君(高67回・東京大学法学部4年生)が、東京大学運動会応援部の主将に就任し、神宮球場等で活躍しています。また北海道大学・前田理教授(高校50回)は、化学の分野で世界で初めて「人工力誘起反応法」の開発に成功され、文部科学省の「世界トップレベル研究プログラム(WPI)」に採択されています。会員共々、心より敬意を表したいと存じます。
 教育者としての長谷川五作先生(母校勤務:大正12年(1923年)~昭和30(1955年)について書かせて頂いておりますが、今回は、先生の業績を偲ぶ資料室を設置できたことについてです。千曲市校長会の若林一成・八幡小学校長(高29回)、久保田英雄・五加小学校(高29回)の両氏らが、『信濃教育』(平成3011月号、信濃教育会編)に、長谷川先生について「日本の遺伝学の先駆者」として研究論文を掲載されましたが、この両氏の執筆にあたって、長谷川先生のお孫様の長谷川徹氏(高校38回)がその資料を提供されました。若林、久保田両氏は、執筆終了後に、その資料を同窓会に寄贈されましたので、長谷川徹氏のご了解をいただき、「会議室2」に「長谷川五作先生資料室」として保管することといたしました。
 会員皆様の益々のご活躍、ご健勝をお祈りして、また今後ともご支援のほどを宜しくお願い申し上げ、ご挨拶といたします。


「鳩陵会館の完成記念講座」を経て結婚支援事業へ

教育者としての長谷川五作先生(その八)
会長 赤地憲一(高17回)

 平成も最終年を迎え、会員皆様には、益々ご清祥の段、心よりお慶びを申し上げます。日頃は母校のために格別なご支援を賜り、厚く御礼を申し上げます。
 さて、鳩陵会館落成を記念した公開講座は、平成30年3月の宮崎和順名誉会長による「代数学の初歩―神秘律の証明―」から、同年7月の宮下達朗・中村峻太郎両君による「私の受験勉強」(7月)まで、計8回にわたり予定通り開催することができました。関係皆様のご協力に、心より感謝を申し上げます。
 そのうち「結婚相談の現状と課題」については、旧高女2校との研修会を経て、6カ月に及ぶ協議の末に、本会としての方針を別掲のとおり提案できるところとなりました。これは、結婚相談委員各位のご尽力の賜であり、心より感謝を申し上げますとともに、会員同士の情報交換を基調とした、同窓会が主催するものに特徴づけられる「共通の学校文化の相同性による『親和力』の作用」(註1)によって、当事業が軌道に乗り発展できますよう、皆様のご支援のほど、宜しくお願い申し上げます。
 教育者としての長谷川五作先生(母校勤務:大正12年・1923年~昭和30年・1955年)について書かせて頂いておりますが、今回は、この度千曲市校長会(代表:若林一成八幡小学校長=高校29回、久保田英雄五加小学校長=高校29回)が長谷川先生について「日本の遺伝学の先駆者」として『信濃教育』に研究論文を掲載されていることについてです(註2)。36頁に及ぶこの論文には、お孫様であられる長谷川徹氏(高校38回)のご協力により得られた、先生の日記等の調査結果が含まれ、太平洋戦時下における教育者としての長谷川先生の姿を伺い知ることができます。
 昭和20年3月~8月戦争末期、敵機の襲来による警戒警報が50回を数えたとありますが、その中、2月の日記には「中学校用の教科書にトウモロコシの雑種において、粒の色が黄色が優性、紫色が劣性となり居る。この二点の誤りなるを知り、不愉快に堪えず」と、このような厳しい戦時下でも教育者として、遺伝学者として、生徒の教材の不備には堪えられない長谷川先生のお気持ちを知ることができました。
 平成に続く新たな年号のもと、会員皆様の益々のご活躍、ご健勝をお祈りして、また、今後とも母校へのご支援を宜しくお願い申し上げ、ご挨拶といたします。
(註1)黄順姫「同窓生ネットワークの機能」『同窓会の社会学』(2007年世界思想社)
(註2)若林・久保田氏ほか「日本の遺伝学の先駆者長谷川五作先生」(『信濃教育』平成30年11月号)

会館並びに多目的運動広場の落成に感謝を申し上げます

教育者としての長谷川五作先生(その七)「お孫様に出会う」 
会長 赤地 憲一 (高 17回) 

 残暑の厳しい折、会員皆様には、まずはご自愛のほど心よりお祈り申し上げます。日頃は母校のために格別なご支援を賜り、厚く御礼を申し上げます。 
 さて、この度同窓会館「鳩陵会館」が竣工成り、3年前に完成していた多目的運動広場と併せて、去る3月18日に落成式典を挙行することができました。地権者である神尾房子様の長きにわたり格別なご理解と、宮崎和順名誉会長をはじめ、25,000の会員皆様、そして、建設費用のために奔走いただいた支部長・理事の皆様をはじめ役員諸氏、とりわけ、終始誠意をもって技術の粋を駆使され、無事に安全に竣工いただきました(株)春原木材様に改めて心より厚く感謝を申し上げます。 
 この上は、その建設理念である「同窓生の親睦の場として、また母校に学ぶ生徒達の補習やクラブ活動の場として、また、地域に開かれた諸事業の場として、以て母校の一層の発展に寄与する」に歩を踏み出すことができますことは、全ての会員皆様とともに、大きな喜びとするところでございます。 
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 「教育者としての長谷川五作先生」(母校勤務:大正 12年・1923年~昭和30年・1955年)について書かせて頂いておりますが、今回は名誉会員・瀬在幸安博士(高校1回・第 10代日大総長・心臓外科学)の恩師に対する篤い思いです。1900年は、メンデルの法則の再発見の年で、瀬在先生は、この年にすでに長谷川先生がその論文を読んでおられたことに、かねてから驚嘆され、「何によりそれを知り、どんな風に興味を抱かれたか。」を『週刊新潮』の「尋ね人掲示板」に寄稿されて(平成17年6月9日号)、その情報を世に求められました。しかし、その反響がなかったことに、瀬在先生が少々落胆されていらっしゃいましたことは承っておりました。 
 ところが、13年後のこの3月、「会館落成番組」を制作する過程で、長野朝日放送の宮嵜芳之ディレクターから、長谷川邸を守るお孫様の存在を知らされたことから、私は長谷川邸を訪問させていただく機会に恵まれました。長谷川徹氏(高38回)です。驚いたことは、13年前の瀬在先生の『週刊新潮』を保存されておられ「めったに買わない週刊誌でしたが、東京のE電の中で読んで、偶然「尋ね人掲示板」を読みました。名乗りでるのは恐れ多く、そのままになっていましたが、週刊誌は大切に保存してきました」。偶然にしては、実に不思議なことで、先生の尊い篤き恩師への思いを感じております。 
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 会員皆様の益々のご活躍、ご健勝をお祈りして、また同窓会館建設のご支援に重ねて御礼を申し上げ、ご挨拶といたします。