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飯島勇三氏のご逝去を悼む

中学15回 市 川  誠
(信州大学名誉教授・工学博士)
 飯島勇三氏は旧臘(註)98歳の天寿を全うし逝去されました。ここに生前の一端に触れさせていただき、貴殿の遺された偉大なる業績に、敬意と謝意を表する縁(よすが)としたいと思います。
 貴殿は、埴科郡五加村大字中(現千曲市)に生まれ、昭和8年屋代中学校11回生として入学しました。私はその4年後の昭和12年入学の15回生ですので一緒だったのは僅か1年間でした。
 貴殿と私は、よく朴歯太緒高下駄を履いて、ゆっくり話しながら通学しました。貴殿は、長身で美男子の一面、豪放磊落かつ熱血漢で、その熱血漢ぶりは、後日、講堂で全校生徒を前に示されました。
 プール建設について、生徒達が千曲河原から、玉石を背負って運んだ苦労話をして、先輩の魂が籠るプールを汚したり傷つけたりしないよう、強く呼びかけたのです。校友会誌『ことだま』の「黎明集」では、「母校を去るに及び、残さん言葉、同輩の言に尽きたり。我亦何をか云わん。」と、貴殿の生活態度と符合する名言で結んでいます。
 また、遺伝学・生物学の長谷川先生を強く慕っており、「在学中、先生の研究室によく出入りされていました。」と私の同級生で、長谷川先生の助手をしていた中村重幸氏が語ったことがあります。これは、貴殿が医学に進んだことと無関係とは思われません。
 金沢医科大学校(金沢大医学部の前身)に進み、昭和19年10月、軍医として西南太平洋のフィリピン、ミンダナオ島ダバオに出陣しました。それから約1年間敗終戦まで、軍医として極度の艱難辛苦に堪えて、その責務を全うし、昭和20年12月、辛うじて帰国することができました。この間の詳細については、『ダバオ戦に参加して―鬼軍医か人情軍医か―』の中で述べられています。
 終戦から平成時代に入り、日本国民は、平和と豊かな生活を享受しています。貴殿の上田市に開院した耳鼻咽喉科医院も高い評価と信頼を得て、その間医学の研精を進め、医学博士となり、日本耳鼻咽喉科学会参与として、全国医学の進展にも貢献されました。更に故郷への愛惜の情深く、『信州姨捨山、平成の里人・飯島勇三』の冊子を刊行し、姨石とその周辺について、故事から現在まで詳述しています。
 同窓会員としては、上田支部の支部長を長年務められ、同窓会館の建設を夙に強く推進され、竣工を見ることができました。同窓会の新企画「卒寿鳩会」には、毎回出席され、後輩に健康助言などを熱心に語って下さいました。このような幅の広い活躍を偲ぶにつき、貴殿は、医師として本懐だったと私には思われます。ご冥福を心より願って、合掌。 平成31年1月20日
(註)(「きゅうろう」・昨年暮)

「卒寿鳩会」での飯島氏(座っている)
前列左端が筆者