会長あいさつ

屋高生・3年生の皆さん 最悪の場合にもベストを尽くそう

会長 赤地憲一(高17回)
 会員皆様には、新型肺炎の感染禍の中、まずはご自愛のほど心よりお祈り申し上げます。日頃は母校のために格別なご支援を賜り、心より厚く御礼を申し上げます。
 さて、現在世界は、ジャーナリストの宮下洋一氏(高46回・註1)が「スペイン死者2万人―涙すら出ない」と『文芸春秋6月号』に、9頁にわたり詳述されているように、世界的パンデミックの渦中にあります。
 文部科学省も学校も保護者も、誰も経験したことのないウイルスとの闘いで、誰も正解を導き出せない出来事に、今の高校3年生が直面している現実に、心からお見舞いを申し上げます。
 甲子園大会や高校総体、総文祭関係行事は、是が非でも開催して欲しいと願っていました。試合に敗れて甲子園を諦めるのではなく、戦わずして去る……『ペスト』(1947年)でカミュが書いている「不条理」の世界がここにあり、自分が被害者のように感じられることもあるでしょう。
 この試練は、将来いずれ、自分の力を発揮する時に、必要になるでしょうが、今、
18歳皆様に贈る言葉としては、冒頭の「最悪の場合にもベストを尽くす」です。これは自分が高校1年生の時に、保健体育を教えて頂いた藤本勝彦先生(註2)の言葉で、人生訓・金言がちりばめられた授業の「藤本先生語録」の中の一節、自分も爾来60年間、折に触れ励まされてきました。
 先生は、常に最悪の状況を想定して陸上競技を指導されておられました。例えば、昭和52の長野インターハイで、山浦弘子さん(註3)は、走り幅跳びで4位入賞という大金星を成し遂げましたが、この背景には、藤本先生の指導――放課後の練習で、雨が降る度に、堀内選手を長野市陸上競技場に連れて行かれ、雨の中で跳躍練習をさせ、「最悪」に備えられていました。そしてインターハイ当日は、まさに雨降りの日になり、堀内選手は「他の選手が調子を崩す中、自分は普段どおりの力が出せた」と述懐されています。
 我々は、今まで科学や医学は常に発展していくという幻想を持ち過ぎました。これほどまでに不確実な時代に住んでいて、不測の事態が起こると、教育、経済、医療を含め社会全般に、とてつもない影響を及ぼすことを知らされました。
 結びにあたり、会員皆様のご健勝をお祈り申し上げますとともに、非常時ではございますが、同窓会に変わらぬご支援とご鞭撻をお願い申し上げ、ご挨拶とさせていただきます。なお、「教育者としての長谷川五作先生(その10)」は、紙面の都合で次号に回します。

(註1)篠ノ井東中出、平成30年(2018年)「安楽死を遂げるまで」が「講談社ノンフィクション賞」に輝き、本同窓会のThePeople of the Year賞を受賞。
(註2)本校在職:昭和37年~同55年。昭和41年の県高校総体・北信越高校総体の総合優勝や11連続インターハイ出場等の好指導により、日本陸連による平沼賞を受賞。
(註3)旧姓堀内弘子、記録は5メートル54センチ(滝沢知寛「戦後の陸上競技班」『屋代高校60史』)。現在、小諸東中学校勤務

宮﨑和順 名誉会長を悼む

会長 赤地 憲一(高17回)
 宮﨑名誉会長は、高校第3回のご卒業で東京教育大学(筑波大学の前身)を卒業後、県教育界に入られ、高校教育課長等を歴任後、平成3年に教育長に就任。同5年10月に退任されたが、ひき続き2期8年の教育委員のうち7年間を教育委員長として手腕を揮われた。退任後、平成15年から10年間同窓会長としてその発展に貢献された。同14年文部科学大臣表彰、同15年勲四等瑞宝章受章。令和元年8月8日ご逝去、87歳。
 にわかに宮﨑和順先生の訃報に接し、愛惜の情、きわまりないものがございます。八十七歳というご長寿とは申せ、長野県教育界にとって特別な存在の先生でございますので、まだまだご指導をいただけるものと信じておりました。生者必衰とは申せ、人生の無常を嘆かずにはおられません。先生の教えを受けた者が等しく感銘し、敬慕するところは、厳しさの中にも、深くて広い心をお持ちで、温かさの中にも、確固たる教育信念のもと、卓越した者への期待感が込められておられたこと、まさしく、偉大なる教育者でございました。
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 先生は、昭和32年に東京教育大学理学部数学科をご卒業され教育界に入り、野沢北高校(4年)、静岡県清水東高校(2年)、飯田高校(6年)、松本深志高校(8年)と、20年間数学教師として歩まれました。松本深志高校で先生の教えを受けられた第28代屋代高校長の堀金達郎先生は、「毎時間、先生が出される手作りプリントの莫大な量に圧倒され続けた。」そうでございます。また、ガリ版鉄筆の時代、「お顔に似合わず文字がきれいだった。」(田中正吉・元松本深志高校長)そうで、夏休み中も熱心にご指導をしていただいたと述懐されます。
 こうした教育者宮﨑和順先生に影響を与えた人に、大学時代の恩師で、一昨年(2017年)91歳で亡くなられた、イリノイ大学名誉教授・数学基礎論の竹内外史先生がいらっしゃいます。宮﨑先生が、大学2年生の最初の授業に遅刻をしていったところ、竹内教授は、「Easyのものの中にこそ本質がある」と、遅刻を叱責されましたが、1年後専門ゼミを選択する時になると、竹内先生の方から「私のゼミに来ないか」との温かなお言葉があり、これを契機に、先生は終生師と仰ぎ、研究室では囲碁を教えていただいた逸話は、心に残っておりますところです。
 それまでの20年及ぶに、学校現場でのご活躍から、先生は昭和52年、長野県教育委員会教学指導課の指導主事に抜擢されました。後の平成13年から県教育長を務められた斉藤金司先生は、「教育行政という言葉があるが、宮﨑先生は、それを支える教師としての力が大きく、子供たちを思う根っこのところが大きかった。」と評され、また、平成18年から県教育長を務められた山口利幸先生は、「宮﨑先生は、高校教育課長時代を含めて、生徒指導、学力問題、国旗国歌、生徒の急増期にあたり5校の新設校開設、飯田高校事件等、難題がいくつもあったが、先生の教育哲学は、『自由と平等のバランスを絶妙にとられた教育行政』であった。」と言われたことがあります。例えば、隣接学区から入学を認めることになった「10%条項」は、通学区制という平等性と10%の枠という自由性であり、また高校入試の判定資料として昭和50年代に先生が導入された「相関図方式」も、学力検査の点数という平等性と、受験生をもう一つの物差しで測る自由性であり、数学を教育行政に生かされた、その慧眼にはただ敬服するばかりです。
 一方、各学校の課題について、先生は高校教育課長時代(昭和62年~64年)本県教育の課題を「学校経営の弾力化、個性化」「基礎学力の向上」と捉え、これを具現化する形で、昭和63年に、特色ある学科、学校の新設に取り組まれました。そして、平成3年に教育長に就任されると、翌年には県下初の専門学科として、屋代高校に理数科、飯山南高校に体育科を開設したのでございました。
 屋代高校同窓会においては、宮﨑先生は、平成15年から10年間にわたり、同窓会長として、屋代高校と同窓会のご発展にご貢献されました。この間、文化講演会「屋高フォーラム」の立ち上げは平成16年、シンポジウムの立ち上げは平成19年でしたが、私としては、10年目を迎えた頃から、「そろそろこの辺で・……」と考えることもありましたが、その都度宮﨑先生は、「おい、これはいい企画だ。続けろや」と、激励して下さいました。本年で16回、このように長く続いているのも、また、創立以来課題となっておりました同窓会館建設も、先生の御熱意が実り、一昨年(平成30年)3月に完成式典を行い、記念講演として、先生には「神秘律の証明」という「代数学」にかかわるご講演を賜りました。難解なご講演でしたが、ご満悦な先生の表情に、我々は、多少とも恩返しができましたものと、安堵を覚えたものでございます。
 先生には、宮﨑家の家門の繁栄を目のあたりにされ、先生はこのように数多くの人々の敬慕のうちに天寿を全うされましたことは、人を大切にされた先生らしく、大往生であられました。
 奥様の順子様はじめ、ご親族皆様には、一日も早く先生のご他界の悲しみから癒されますように、今ここに、宮﨑和順先生の御遺徳をしのび、つつしんでご冥福をお祈り申し上げますとともに、御家族、ご親族皆様の今後の益々のご発展を見守っていただきますよう、また屋代高校はじめ、長野県教育全体の発展をお導き下さいますよう、お願いをして、お別れの辞とさせていただきます。どうか安らかにお休みください。
合掌。

栄えある母校の躍進を祝す

教育者としての長谷川五作先生(その九)
会長 赤地憲一(高17回)
 令和の新しい時代を迎え、会員皆様には益々ご清祥の段、心よりお慶びを申し上げます。日頃は母校のために格別なご支援を賜り、心より厚く御礼を申し上げます。暑さ厳しいこの頃、鳩陵会館完成時に植樹した、ヤマボウシやアベリアが、昨年来の厳しい冬を乗り越えて根づき、その木々のつくり出す涼を有難く思う時でございます。
 鳩陵会館の完成を記念してスタートした講座「結婚相談」は、この事業に長い歴史を持つ2つの旧女子校から昨年度、講師を招いて研修をおこない、我が鳩会としての方式「マリーメイト鳩の会」としてとして立ち上げました。第1回目を去る5月6日に開催しましたところ、この「親による代理婚活事業」方式は、予想を超え盛況で、参加者からの評価も高い中でスタートができましたこと、関係者皆様に感謝を申し上げます。
 もう一つの公開講座「法律の無料相談」につきましては、同窓会の柳沢修嗣副会長(平成29年度・県弁護士会会長)に弁護士の選定やその方法等をお願いして、来る9月7日を皮切りに、年度内に3回の開催を予定しております。皆様にもご案内を申し上げます。
 母校の現況で特筆すべきは、今春の大学進学実績です。今年の大学入試センター試験は、1月20日に終了しましたが、その直後から、県内教育関係者の間で話題になったのは、屋代高校生の頑張り、その結果に注目が集まりました。その勢いは、大学入試が終わる3月中旬まで続き、予想された通り、見事な結果となって結実したのでございます。普通科・理数科・一貫生それぞれの生徒達、とりわけ普通科生徒の頑張りが目についたと、高澤校長先生はじめ関係者から承り、三者がお互い切磋琢磨する中で、実力を伸ばして行ってくれたものと存じます。
 一方、卒業生の活躍にも注目すべきものがあります。宮下達朗君(高67回・東京大学法学部4年生)が、東京大学運動会応援部の主将に就任し、神宮球場等で活躍しています。また北海道大学・前田理教授(高校50回)は、化学の分野で世界で初めて「人工力誘起反応法」の開発に成功され、文部科学省の「世界トップレベル研究プログラム(WPI)」に採択されています。会員共々、心より敬意を表したいと存じます。
 教育者としての長谷川五作先生(母校勤務:大正12年(1923年)~昭和30(1955年)について書かせて頂いておりますが、今回は、先生の業績を偲ぶ資料室を設置できたことについてです。千曲市校長会の若林一成・八幡小学校長(高29回)、久保田英雄・五加小学校(高29回)の両氏らが、『信濃教育』(平成3011月号、信濃教育会編)に、長谷川先生について「日本の遺伝学の先駆者」として研究論文を掲載されましたが、この両氏の執筆にあたって、長谷川先生のお孫様の長谷川徹氏(高校38回)がその資料を提供されました。若林、久保田両氏は、執筆終了後に、その資料を同窓会に寄贈されましたので、長谷川徹氏のご了解をいただき、「会議室2」に「長谷川五作先生資料室」として保管することといたしました。
 会員皆様の益々のご活躍、ご健勝をお祈りして、また今後ともご支援のほどを宜しくお願い申し上げ、ご挨拶といたします。


「鳩陵会館の完成記念講座」を経て結婚支援事業へ

教育者としての長谷川五作先生(その八)
会長 赤地憲一(高17回)

 平成も最終年を迎え、会員皆様には、益々ご清祥の段、心よりお慶びを申し上げます。日頃は母校のために格別なご支援を賜り、厚く御礼を申し上げます。
 さて、鳩陵会館落成を記念した公開講座は、平成30年3月の宮崎和順名誉会長による「代数学の初歩―神秘律の証明―」から、同年7月の宮下達朗・中村峻太郎両君による「私の受験勉強」(7月)まで、計8回にわたり予定通り開催することができました。関係皆様のご協力に、心より感謝を申し上げます。
 そのうち「結婚相談の現状と課題」については、旧高女2校との研修会を経て、6カ月に及ぶ協議の末に、本会としての方針を別掲のとおり提案できるところとなりました。これは、結婚相談委員各位のご尽力の賜であり、心より感謝を申し上げますとともに、会員同士の情報交換を基調とした、同窓会が主催するものに特徴づけられる「共通の学校文化の相同性による『親和力』の作用」(註1)によって、当事業が軌道に乗り発展できますよう、皆様のご支援のほど、宜しくお願い申し上げます。
 教育者としての長谷川五作先生(母校勤務:大正12年・1923年~昭和30年・1955年)について書かせて頂いておりますが、今回は、この度千曲市校長会(代表:若林一成八幡小学校長=高校29回、久保田英雄五加小学校長=高校29回)が長谷川先生について「日本の遺伝学の先駆者」として『信濃教育』に研究論文を掲載されていることについてです(註2)。36頁に及ぶこの論文には、お孫様であられる長谷川徹氏(高校38回)のご協力により得られた、先生の日記等の調査結果が含まれ、太平洋戦時下における教育者としての長谷川先生の姿を伺い知ることができます。
 昭和20年3月~8月戦争末期、敵機の襲来による警戒警報が50回を数えたとありますが、その中、2月の日記には「中学校用の教科書にトウモロコシの雑種において、粒の色が黄色が優性、紫色が劣性となり居る。この二点の誤りなるを知り、不愉快に堪えず」と、このような厳しい戦時下でも教育者として、遺伝学者として、生徒の教材の不備には堪えられない長谷川先生のお気持ちを知ることができました。
 平成に続く新たな年号のもと、会員皆様の益々のご活躍、ご健勝をお祈りして、また、今後とも母校へのご支援を宜しくお願い申し上げ、ご挨拶といたします。
(註1)黄順姫「同窓生ネットワークの機能」『同窓会の社会学』(2007年世界思想社)
(註2)若林・久保田氏ほか「日本の遺伝学の先駆者長谷川五作先生」(『信濃教育』平成30年11月号)

会館並びに多目的運動広場の落成に感謝を申し上げます

教育者としての長谷川五作先生(その七)「お孫様に出会う」 
会長 赤地 憲一 (高 17回) 

 残暑の厳しい折、会員皆様には、まずはご自愛のほど心よりお祈り申し上げます。日頃は母校のために格別なご支援を賜り、厚く御礼を申し上げます。 
 さて、この度同窓会館「鳩陵会館」が竣工成り、3年前に完成していた多目的運動広場と併せて、去る3月18日に落成式典を挙行することができました。地権者である神尾房子様の長きにわたり格別なご理解と、宮崎和順名誉会長をはじめ、25,000の会員皆様、そして、建設費用のために奔走いただいた支部長・理事の皆様をはじめ役員諸氏、とりわけ、終始誠意をもって技術の粋を駆使され、無事に安全に竣工いただきました(株)春原木材様に改めて心より厚く感謝を申し上げます。 
 この上は、その建設理念である「同窓生の親睦の場として、また母校に学ぶ生徒達の補習やクラブ活動の場として、また、地域に開かれた諸事業の場として、以て母校の一層の発展に寄与する」に歩を踏み出すことができますことは、全ての会員皆様とともに、大きな喜びとするところでございます。 
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 「教育者としての長谷川五作先生」(母校勤務:大正 12年・1923年~昭和30年・1955年)について書かせて頂いておりますが、今回は名誉会員・瀬在幸安博士(高校1回・第 10代日大総長・心臓外科学)の恩師に対する篤い思いです。1900年は、メンデルの法則の再発見の年で、瀬在先生は、この年にすでに長谷川先生がその論文を読んでおられたことに、かねてから驚嘆され、「何によりそれを知り、どんな風に興味を抱かれたか。」を『週刊新潮』の「尋ね人掲示板」に寄稿されて(平成17年6月9日号)、その情報を世に求められました。しかし、その反響がなかったことに、瀬在先生が少々落胆されていらっしゃいましたことは承っておりました。 
 ところが、13年後のこの3月、「会館落成番組」を制作する過程で、長野朝日放送の宮嵜芳之ディレクターから、長谷川邸を守るお孫様の存在を知らされたことから、私は長谷川邸を訪問させていただく機会に恵まれました。長谷川徹氏(高38回)です。驚いたことは、13年前の瀬在先生の『週刊新潮』を保存されておられ「めったに買わない週刊誌でしたが、東京のE電の中で読んで、偶然「尋ね人掲示板」を読みました。名乗りでるのは恐れ多く、そのままになっていましたが、週刊誌は大切に保存してきました」。偶然にしては、実に不思議なことで、先生の尊い篤き恩師への思いを感じております。 
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 会員皆様の益々のご活躍、ご健勝をお祈りして、また同窓会館建設のご支援に重ねて御礼を申し上げ、ご挨拶といたします。