活躍する同窓生

祝 創立100周年 わが青春を語る① バスケットボールから 始まった我が高校時代

高野正樹(高10回)
(医療法人社団永高会会長・東京蒲田ロータリークラブ会員・奈良市興福寺財団法人理事長歴任)

 
 66年前、私の高校生活はバスケットボールから始まり、3年の秋季大会まで、朝・昼・夕方、練習に明け暮れる日々を送った。試合にはあまり勝った記憶はないが、一瞬のひらめきで敵陣に切り込みシュートが成功した時の判断力と機敏さ、阿吽の呼吸でパスが巧く通った時の秘かな喜びとチームワークの大切さ、思い出深く、人間形成の土台となった。
 しかし、3年夏の学期末試験で、バスケの滝沢先生から渡された英語『0点』は大ショック。それでも先生に、浪人は許されないが進学をしたいと相談したところ、思案の末、放課後の教員室で中学時代の英語の教科書の復讐を約3か月間一緒にやって頂き、他の先生からも「頑張っているな」と声を掛けられ、思えば、母校屋代の先生方のお蔭で、自分の今があり、故郷である。
 大学はバスケットが強かった明治大学(商学部)に入学
でき、4年生時の就職選考試験の結果、就職課から「英語は芳しくないが、経済学はトップクラスの君の成績に合っている職場だと思う。推薦しよう」と、社団法人全国地方銀行協会に就職ができ、60歳、事務局長で卒業した。

 地銀協は、八十二銀行はじめ全国64行の頭取が毎月参集し、銀行経営の内外の諸問題について喧々諤々と議論をし、全国地銀の英知が集結された職場であった。30代から30年間、地銀界のみならず金融界・官界の真っただ中で生身の勉強と仕事を精一杯させてもらったお蔭で、毎日が午前様のフル稼働、人脈も多彩となり豊かな人生を過ごせたと実感している。
 因みに、どの金融機関の店にも置いてある預金の「預け入れ」の伝票にも、預金の種類が「普通」「貯蓄」と並んでいるが、「貯蓄」の名付け親は、正真正銘この私である。

 60歳からは、縁あって、別世界の医療業界、往診専門の「蒲田クリニック」を「医師が医療・経営は高野」という二人三脚の新しい試みで開院することができた。
 幸運にも、開院当初の22年前、母校の大先輩の医師瀬在幸安先生に、日本大学総長の時にお目にかかり、以来、枚挙にいとまがない薫陶、ご高配そして温かい励ましのお言葉を賜り続け、振り返れば、高齢化社会の到来でますます必要な「在宅医療」(訪問診療と訪問看護・リハビリ)の草分け的な役割を担うことができ、崇高な大先輩に大感謝です。クリニックには、瀬在先生の総長時代の書「現状維持は、退歩の始まり」を畏敬の念を持って掲げさせて頂いている。
※ 「東京鳩会会報」から掲載させていただきました。