活躍する同窓生

東大野球部でベンチ入りを果たした 谷保梓樹君

たにほ あずき君 佐久市立中佐都小出、高72回。附属中でハンドボール班、高校から野球班で外野手として活躍。理科Ⅰ類に入学し、現在工学部都市工学科4年生。今春から背番号51の「学生コーチ」としてベンチ入りを果たした。写真は、去る5月5日の東大―早大戦で、3塁コーチャーズボックスに向かう谷保コーチ。(神宮球場)

○ 部員が108人、練習時間が一日5時間という東大野球部。「学生コーチ」としてよくぞ、ベンチ入れを果たされましたね。これまでの3年間、学業との両立等で退部を考えたことはなかったですか。
―― 私の工学部都市工学科は、演習が忙しいことで有名で、課題の発表直前期などは、夜通し作業して準備をしたり、授業時間<外でも多くの時間を割く必要があります。そのため、部活との両立という点で体力的・精神的に辛い瞬間は幾度となくありました。しかし、東大野球部は私が高校入学以来常に目標としていた場で、長く辛い受験勉強を経て長年の夢を手に入れることができた今、野球部の活動に全力を注がないという選択肢は一切ありませんでした。退部を考えたことも一度もありません。

○ 勉強時間はどうように確保されましたか。
―― 同期の仲間にも恵まれ、野球部活動も大変充実しており、楽しいものです。勉学面では、学科での活動やバイトなど、夜遅くなってしまうことが増えたため、高校時代のように午前3時に起きることはなくなりました。しかし、長年朝型生活を続けていたからか、夜に勉強等をする気にはなれないので、早く寝てその分早く起きて勉強や作業をしています。

○ 練習時間帯や「学生コーチ」の任務とやりがいについて教えてください。
―― 部員数は1年生が入り100名を超し、全員で行うと効率が悪いので、A/Bの2班に分かれて行います。午前中にAチーム、午後にBチームで、私はAチームを担当し、練習時間は7 :45―12:30です。学生コーチは私を含め8人いて、その役割は練習計画や運営、ノックを打つこと、監督助監督と選手起用の相談等です。私はこれに加え三塁コーチをやっております。
 やり甲斐は、打つノックによって選手が上手くなっていく様子を感じること、三塁コーチとしてはシングルヒットで、2つ分塁を進める走塁のサポートができた時に喜びを感じます。野球は非常に複雑で奥が深いスポーツですが、三塁コーチになって、走塁について考えることが多くなり、その度に野球の奥深さと面白さを実感しています。

○ 都市工学科都市工学コースについて、聞かせてください。
―― 高校生の時から「まちづくり」に興味のあった私にとって、進学を希望していた学科で、現在非常に充実しています。本学科では「まち」を形作るルールである「都市計画」を中心に、専門的な知識等を学び、具体的には土地利用計画論、住宅論、緑地計画論、コミュニティデザイン論、防災、まちづくりに関する法と訴訟、広域計画、交通論などです。週に6コマ設定されている演習では、池袋の集合住宅設計、東京都市圏の将来都市構造、横須賀市を舞台とした都市計画マスタープランの策定、ダウンタウン単位で都市更新などの演習を行いました。
 これに加え、自分は、一級建築士資格の取得を目指し、建築学科の授業も履修しています。4年生になり「空間デザイン」を扱う研究室に配属となり、駅前空間のデザインや広場の設計、ストリートのデザインなど、都市に関する分析とそれを踏まえた空間提案色が強い研究室です。


○ ご自分の研究テーマや来年4月からの予定は?
―― 去る4月配属されたばかりで、具体的な研究テーマ等の決定はまだ先ですが、私は「地上駅によるまちの分断の解消」をテーマとした研究・設計を考えています。来年4月以降は、大学院進学を希望していますが、院試は未実施なので現時点では進路は未定です

祝 創立100周年わが青春を語る③ 我が青春と人生の道程(みちのり)

南嶋俊三(旧姓飯島)(高21回)(元阿南高校長、前阿南町教育長)

 私の青春と人生を支えてくれた競技歴、職業歴について記させていただきます。
 私の競技歴は、陸上競技の棒高跳びから始まりました。中学3年のこと、担任の先生が棒高跳びの選手であり、その先生に勧められて始めたのです。その頃は竹でしたが、始めたその年の県中学放送陸上で3m10を跳び優勝。それから病みつきになりました。屋代高校に進学し、陸上部顧問の藤本勝彦先生のご指導をいただきました。その間、個人優勝や、屋代高校初の陸上競技の県大会優勝を成し遂げました。高校の3年間でインターハイや国体をはじめ、諸大会に出場し、全国各地を廻るなど素晴らしい経験をさせていただきました。
 高校卒業後、順天堂大学に進学し、引き続き棒高跳びに専念しました。大学となると、全国から高校時代に活躍した選手が多く入学してきて、私などは記録的にも低レベルな存在でした。練習も、高いレベルの選手の補助に回る毎日で、自分の練習は一流選手の練習が終わってからでした。記録も思うように伸びず、1・2年の頃は心身の疲れで悩むこともありました。進級するにつれて精神的にも安定して記録も伸び、4年生の時には全日本大学陸上競技選手権大会(インターカレッジ)に出場し、初めての出場で5位に入賞。これが順大総合優勝の魁(さきがけ)となる得点でした。入学以来初めて監督から褒めていただいたことは今でも忘れません。「地道に努力すればいつかは結果が出て光が当たるものだ」ということを胸に刻みました。
 大学卒業後は下伊那郡阿南町の阿南高校で教員としてのスタートを切り、その一年目に幸運なことに沖縄復帰記念国体が開催され、教員の部で4m50を跳び優勝しました。その写真が昭和48年5月6日の朝刊に掲載され、帰郷すると大歓迎を受け、西沢権一郎県知事を訪問しトロフィーをいただきました。最後の最後で結果を出し、花を咲かすことができ、素晴らしい競技人生でした。
 私が教員を目指すきっかけとなったのは、前述したとおり中学校の担任が体育の先生だったからです。棒高跳びを教えてくれたその方が私の目標でした。初任校の阿南の地に縁があり、そこに生涯生活することになりましたが、気候温暖、人も丸く、生活地盤としては最高の地と思っています。
 この阿南の地を基盤として2校を経験し、幅広い知識を求めて、社会教育の方面で国立乗鞍青年の家、阿智村社会教育主事など違った分野で多くの経験もさせていただきました。それらの経験をもとに、教頭、校長を経て37年間の教員生活にピリオドを打ちました。その後は阿南町教育長をやらせていただき、71歳まで現役を続けることができました。一日も欠勤することなく、50年を全うできたことは実に有難く、健康な身体に産んでくれた両親に感謝しています。

祝 創立100周年わが青春を語る③ 屋代中学生時代回顧

市川 誠(中15回・98歳)(信州大学名誉教授・工学博士)

 母校創立100周年をお祝い申し上げます。
 私達中15回生は、埴科中学校(屋代中学校)創立の翌年大正13年度に誕生しました。私は母校の創立100周年に際し、自己の来し方などに照らし、感慨深いものがあります。
 私達の小学校入学の昭和6年に、満州事変、中学校入学の昭和12年に支那事変(日中戦争)、中学5年生の昭和16年に大東亜戦争(太平洋戦争)が始まりました。そして、終戦の約3年半前、昭和17年3月、屋代中学校を卒業しました。
 私達は、このような戦争の拡大が進む時に屋代中学生でした。そして、この間の重大事として記憶に強く残っているのは、「軍事教育訓練を受けた」ということです。
 教練という科目で、配属将校と呼ばれた現役軍人を教師に、授業は他科目と同様、毎週ありました。校庭を仮想戦場としての訓練、教室での軍人必携小冊子(軍人の日常から戦場の規律まで)の解説などが進みました。戦争の最中で青少年は救国心身高揚を求められ、各種の宣伝・報道や行事がありました。手榴弾の投擲距離を含む各種の力量を調べる体力章検定制度に、練習から測定検査まで教練の授業時間が当てられました。
 こんな環境にあって、学年が進むにつれ、私自身は報国の気運が芽生えたように感じました。5年生になると、校内の銃器庫に保管されていた38式歩兵銃を携えての訓練となりました。銃は16歳の私達に、大きく、重く、身体に馴染まず、操作の難しい貴重物でした。
 訓練は実戦的となり、配属将校を隊長として、銃を担って、盛夏の流汗と肩の痛みに堪えながらの八幡神社参拝の行軍、時雨の秋に近隣中学校との川中島・篠ノ井地区における夜を徹しての一泊の合同演習があり、最後に中尾山射撃場における実弾射撃まで経験しました。
 私は、中学4年生の秋、弓道で長野県中等学校の代表として、明治神宮国民体育大会に出場しました。出発の早朝、屋代駅に集合して、応援下さった当時の在校生の皆様にここで御礼申し上げます。

祝 創立100周年わが青春を語る③ 中学時代の宿題を還暦で提出

柳原 健(高14回)(第27次南極観測隊随行)

 南極観測は私の中学生の時に始まった。理科の青木元雄先生(中15回、後に同窓会本部の事務局長も務めた)は、授業中ご自身の経験に基づいた話を沢山して下さった。その中で南極に関係した二つの話を記憶している。「僕は南極へ行かなくてもオーロラを見ることが出来た」「もし南極へ行けたら磁石が立つのを見たい」
 それから25年、私は南極行きのチャンスに恵まれた。当時私は運輸省の船舶技術研究所に勤めていた。オイルショック後のエネルギー事情の変化で、アラスカから石油を運搬するようになった時、砕氷商船が必要になる。研究所では南極観測船「しらせ」の氷海航行性能計測を実施することになり、第27次観測隊に同行するように話があった
 咄嗟に中学時代に聞いた「磁石の話」を思い出して引き受けた。そしてこの年南半球に行けば、ハレー彗星が見られることもこの話を受諾する後押しとなった。
 ハレー彗星は復路のインド洋上で観測できたが、残念ながら磁石の立つのは見られなかった。南磁極は昭和基地から遠く離れており、航路からも外れていからだ。
 期待された結果を得られなかったこともあり、先生への報告は20年後、定年退職し実家に帰ってからになった。宿題のつもりでレポートにまとめ、岩野のご自宅に届けると喜んで下さった。先生がお元気なうちに報告できて良かったと思っている。

人 『空腹こそ最強のクスリ』が40万部突破 養老孟司先生と対談の内科医 青木厚院長

 更埴西中出、高校第42回のご卒業。福井医科大卒業後、自治医科大大学院で糖尿病を中心とした内分泌代謝、動脈硬化分野の研究で医学博士。現在さいたま市内で「あおき内科さいたま糖尿病クリニック」院長のかたわら、メデイア出演や雑誌等での対談、執筆等多数。ご尊父は、ハンドボール界大御所の青木崇先生。

◯ 『プレジデント4月号』を拝見しました。先生ご自身が「プチ断食」により、舌癌を克服されたと伺いましたが
――― 40歳の時に舌癌を患い、死の恐怖を味わいました。内分泌代謝の臨床医として、これを全治させたことで、栄養代謝による、がん治療・予防をライフワークにしています。動脈硬化性疾患やがん再発予防により、患者さんの「よりよい明日のために」精進しています。
◯ 「空腹こそ最良のクスリ」と言われますが、そのメカニズムを教えて下さい。
―― 空腹は、体重や体脂肪を減少させ、糖尿病、がん、心筋梗塞や狭心症などの予防に効果があります。一日3食摂り、前に食べたものを消化している間に、次の食べ物が体内に入ってきますと、内臓は休むことなく働き続けなくてはなりません。当然内臓は疲弊してしまいます。
◯ 具体的な臓器の働きにあわせて、教えてください。
―― 肝臓や胃腸の働きが鈍くなりますと、栄養分をしっかり吸収できなくなりますし、老廃物もきちんと排出されなくなり、腸内環境も悪化するため、免疫力が低下し、病気にかかりやすくなるという訳です。これは、ノーベル賞の本庶佑博士の提唱した「オプジーボ療法」(元来ヒトの体内に備わっている免疫力を利用してガン細胞を攻撃)からヒントを頂いています。
◯ ところで、先生は、いつ頃から医師を目指されたのですか、高校時代のことなどお聞かせ下さい。
―― 高校時代、医療に関心は持っていましたが、担任の先生から「2浪しても無理」と言われてしまい、東京理科大理学部(物理科)に進学しました。そこで医学部付属病院に勤務する医師の息子さんの家庭教師を依頼され、教えているうちに「これくらいのお子様が医学部を目指すのなら・・」との思いから、卒業後に医学部を受験したわけです。「人間は過程的存在」とアレキシス・カレルが言いましたが、学力もそういう面がありますね。

白鳥和生(高 37 回)著 「即!ビジネスで使える 新聞記者式伝わる文章術」

 日経新聞記者として30年、延べ一万本もの記事を作ってきた著者が、誰もが納得する文章を、速く、正確に書く技術を公開したもの。
 その技術とは、ファクト(客観的事実)、データ(数字)、ロジック(論理)の三要素が揃った「説得力」と「納得感」のある文章を速く書くことだという。このテクニックをもっと早く知っていたら、と思わせられた。最後の章では、《文章も品質管理を》と注意喚起した上で、《紙に印刷して音読を》と念を押してある。実行してみたのだが…。ダメ出しをされそうである。

(相談役 徳嵩芳夫)

柿﨑正義(高9回)他共著 「建築現場の チェックポイント」

 建物の欠陥責任の存続期間は品確法の10年の「契約不適合責任」と民法の20年の「不法行為責任」の両にらみで対応しなければ成らない時代を迎え、設計者・施工者にとって施主とのトラブルによる経営上のリスクが高まっている、と著者は記す。
 本書は、地盤構造・構造駆体・外装仕上げ・雨漏りの4編に分け、それぞれの現場での工程内容検査及びメンテナンス時に瑕疵の芽を摘む為にはどうしたらよいか、というチェックポイントをイラストを使いながら具体的に解説した専門的指南書である。

(副会長 吉川正徳)

ウクライナ支援を続ける  坂本龍太朗氏から現地報告

〈取材協力、新聞班〉

さかもと りょうたろう氏 屋代中出、高校第56回。柔道班OBで、現在、ポーランドに家族と在住。ワルシャワ日本語学校教頭。

ウクライナ支援の経緯
 ポーランドの大学院で学んでいた頃からウクライナ出身の同級生が多くいた。そのためウクライナで戦争が始まったと聞き「なんとかしなければならない」という気持ちになった。さらに自分の子どもと同じような歳の子どもたちが寒い中、国境で避難を待っているうちに亡くなってしまったというニュースを見て居ても立っても居られなくなった。ロシア語を話すことができたことが、支援を始める決意を確かなものにした。
支援の現実
 支援には大きく分けて3つがある。
 ウクライナ人家族の支援では行政手続きや通訳、その他の食費や服など含め行政からの支援はほとんどなく、現在は個人の負担となっているためここに一番お金と時間が割かれているのが現状。
 ポーランド国内に避難しているウクライナ人には車がない人の足になったり、SNSを使って連絡をとり、精神的な支援を行っている。またウクライナの国内避難民への支援は、一番支援が必要となっている。テントやマット、電気ヒーターや防寒具などの購入リストをもらうだけでいかに深刻な状況かが伝わる。

避難所の体育館の様子

ウクライナ国内の状況
 ロシア軍の支配下にある地域の情報はほとんど入ってこず、電気、ガスなどのライフラインが遮断されている地域に住んでいる人たちはスマホなども使えないため、どのくらいの人々が生き延びているのかもわからない。キーウやリビウなど比較的安定している地域もあるが、食べ物が不足しているという連絡や、国内避難民が多くいるためバスが足りないといった問題は多くある。
人々、学校の状況
 避難してきた大人は行政手続きを受けるために個人識別番号や銀行口座の開設などをしたり、仕事を探す。子どもたちはポーランドの幼稚園や学校に通っているが学校が避難場所になっている所も多く、勉強などができる環境ではなくなっている。避難している学生たちはポーランド語という言語の壁がある。
日本の中・高校生へ
 私は今、ポーランドでウクライナ支援を行なっていますが、必要となっている言語はポーランド語とロシア語、ウクライナ語です。今後も学校などで英語を学び続けると思いますが、将来その言語を使ってどう人を助けることができるか、人と人を繋ぐことができるのかを考えて学び続けてください。
▼坂本龍太朗(高56回)著
「日本を出て、日本を知る」

祝 創立100周年 わが青春を語る② 良き恩師・友に恵まれ夢をはぐくんだ高校生活

信州大学副学長・工学博士 天野良彦(高30回)

信州大学副学長で工学部長(学術研究院工学系長)の要職にあられる。生物機能科学がご専門で、地域におけるバイオマス資源を有効利用するための技術開発分野の第一人者。

 高校を卒業して、今年で45年が過ぎようとしている。長いようであっという間の出来事であった気もするが、高校時代の良き思い出が今の自分を作ってくれたように思う。とにかく高校時代は楽しかった。部活に麻雀、友人との駄弁り、それらのすべてが楽しくて、高校へ通うのが毎日励みとなっていた。
 まず、部活はバスケット班で、毎日練習に明け暮れた。顧問は山浦先生で、熱血な指導が今も思い起こされる。〈註1〉県大会の準決勝で延長の末負けはしたが、最高身長の生徒が180㎝に満たないチームが、190㎝台の選手がいるチームに勝つことができたのも、先生の考案した頭脳的なフォーメーションプレーのおかげであったと思う。自分はベンチウォマーであったが、部活がなければ高校生活は寂しいものであったであろう。
 また、インターハイに出場経験のある先輩方も練習を見に来ていただき、指導して頂いた。これも屋代高校の良き伝統であったと思う。自分の担任の宮入先生は数学の教科担当であり、熱血指導を頂いた。先生のお宅にも何度か遊びに行かせて頂き、卒業後もかわいがっていただいた。ただ残念なことに、先生は次の赴任校での指導中に現役でお亡くなりになられた。とても驚き悲しみのうちに、葬儀に参列させて頂いたことを記憶している。
 最後に、現在自分は大学で研究生活を送っているが、わが研究のルーツは屋高にあったことを知り、とても驚いた。キノコ菌のたんぱく質(酵素)の研究を行っているが、キノコの人工栽培技術を開発した長谷川五作先生や、私のボスのそのまたボスの西澤一俊先生〈註2〉も屋代高校のOBであった。本当に屋代高校のOBで良かったとつくづく思う次第である。

〈編集室・註〉
(1)  昭和40年代後半からのバスケットボール班は、山浦正孝先生の好指導により、県高校総体2連覇を遂げるなど、強豪チームとして活躍した。
(2) 西澤一俊先生
 塩崎村のご出身で、旧制中第2回の御卒業。東京教育大学(筑波大学の前身)理学部植物教室教授を務められた。旧制中時代、高等師範の理科を受験することは決めていたが、何学科を選べばよいかわからなかったので、長谷川五作先生に相談に行くと、「理科をやるなら、生命をもつ生物をやれ。」と言われ、進路を決めたことが書かれている。(『長谷川五作先生著作選集』(昭和43年、同窓会編)