活躍する同窓生

祝 創立100周年わが青春を語る③ 我が青春と人生の道程(みちのり)

南嶋俊三(旧姓飯島)(高21回)(元阿南高校長、前阿南町教育長)

 私の青春と人生を支えてくれた競技歴、職業歴について記させていただきます。
 私の競技歴は、陸上競技の棒高跳びから始まりました。中学3年のこと、担任の先生が棒高跳びの選手であり、その先生に勧められて始めたのです。その頃は竹でしたが、始めたその年の県中学放送陸上で3m10を跳び優勝。それから病みつきになりました。屋代高校に進学し、陸上部顧問の藤本勝彦先生のご指導をいただきました。その間、個人優勝や、屋代高校初の陸上競技の県大会優勝を成し遂げました。高校の3年間でインターハイや国体をはじめ、諸大会に出場し、全国各地を廻るなど素晴らしい経験をさせていただきました。
 高校卒業後、順天堂大学に進学し、引き続き棒高跳びに専念しました。大学となると、全国から高校時代に活躍した選手が多く入学してきて、私などは記録的にも低レベルな存在でした。練習も、高いレベルの選手の補助に回る毎日で、自分の練習は一流選手の練習が終わってからでした。記録も思うように伸びず、1・2年の頃は心身の疲れで悩むこともありました。進級するにつれて精神的にも安定して記録も伸び、4年生の時には全日本大学陸上競技選手権大会(インターカレッジ)に出場し、初めての出場で5位に入賞。これが順大総合優勝の魁(さきがけ)となる得点でした。入学以来初めて監督から褒めていただいたことは今でも忘れません。「地道に努力すればいつかは結果が出て光が当たるものだ」ということを胸に刻みました。
 大学卒業後は下伊那郡阿南町の阿南高校で教員としてのスタートを切り、その一年目に幸運なことに沖縄復帰記念国体が開催され、教員の部で4m50を跳び優勝しました。その写真が昭和48年5月6日の朝刊に掲載され、帰郷すると大歓迎を受け、西沢権一郎県知事を訪問しトロフィーをいただきました。最後の最後で結果を出し、花を咲かすことができ、素晴らしい競技人生でした。
 私が教員を目指すきっかけとなったのは、前述したとおり中学校の担任が体育の先生だったからです。棒高跳びを教えてくれたその方が私の目標でした。初任校の阿南の地に縁があり、そこに生涯生活することになりましたが、気候温暖、人も丸く、生活地盤としては最高の地と思っています。
 この阿南の地を基盤として2校を経験し、幅広い知識を求めて、社会教育の方面で国立乗鞍青年の家、阿智村社会教育主事など違った分野で多くの経験もさせていただきました。それらの経験をもとに、教頭、校長を経て37年間の教員生活にピリオドを打ちました。その後は阿南町教育長をやらせていただき、71歳まで現役を続けることができました。一日も欠勤することなく、50年を全うできたことは実に有難く、健康な身体に産んでくれた両親に感謝しています。

祝 創立100周年わが青春を語る③ 屋代中学生時代回顧

市川 誠(中15回・98歳)(信州大学名誉教授・工学博士)

 母校創立100周年をお祝い申し上げます。
 私達中15回生は、埴科中学校(屋代中学校)創立の翌年大正13年度に誕生しました。私は母校の創立100周年に際し、自己の来し方などに照らし、感慨深いものがあります。
 私達の小学校入学の昭和6年に、満州事変、中学校入学の昭和12年に支那事変(日中戦争)、中学5年生の昭和16年に大東亜戦争(太平洋戦争)が始まりました。そして、終戦の約3年半前、昭和17年3月、屋代中学校を卒業しました。
 私達は、このような戦争の拡大が進む時に屋代中学生でした。そして、この間の重大事として記憶に強く残っているのは、「軍事教育訓練を受けた」ということです。
 教練という科目で、配属将校と呼ばれた現役軍人を教師に、授業は他科目と同様、毎週ありました。校庭を仮想戦場としての訓練、教室での軍人必携小冊子(軍人の日常から戦場の規律まで)の解説などが進みました。戦争の最中で青少年は救国心身高揚を求められ、各種の宣伝・報道や行事がありました。手榴弾の投擲距離を含む各種の力量を調べる体力章検定制度に、練習から測定検査まで教練の授業時間が当てられました。
 こんな環境にあって、学年が進むにつれ、私自身は報国の気運が芽生えたように感じました。5年生になると、校内の銃器庫に保管されていた38式歩兵銃を携えての訓練となりました。銃は16歳の私達に、大きく、重く、身体に馴染まず、操作の難しい貴重物でした。
 訓練は実戦的となり、配属将校を隊長として、銃を担って、盛夏の流汗と肩の痛みに堪えながらの八幡神社参拝の行軍、時雨の秋に近隣中学校との川中島・篠ノ井地区における夜を徹しての一泊の合同演習があり、最後に中尾山射撃場における実弾射撃まで経験しました。
 私は、中学4年生の秋、弓道で長野県中等学校の代表として、明治神宮国民体育大会に出場しました。出発の早朝、屋代駅に集合して、応援下さった当時の在校生の皆様にここで御礼申し上げます。

祝 創立100周年わが青春を語る③ 中学時代の宿題を還暦で提出

柳原 健(高14回)(第27次南極観測隊随行)

 南極観測は私の中学生の時に始まった。理科の青木元雄先生(中15回、後に同窓会本部の事務局長も務めた)は、授業中ご自身の経験に基づいた話を沢山して下さった。その中で南極に関係した二つの話を記憶している。「僕は南極へ行かなくてもオーロラを見ることが出来た」「もし南極へ行けたら磁石が立つのを見たい」
 それから25年、私は南極行きのチャンスに恵まれた。当時私は運輸省の船舶技術研究所に勤めていた。オイルショック後のエネルギー事情の変化で、アラスカから石油を運搬するようになった時、砕氷商船が必要になる。研究所では南極観測船「しらせ」の氷海航行性能計測を実施することになり、第27次観測隊に同行するように話があった
 咄嗟に中学時代に聞いた「磁石の話」を思い出して引き受けた。そしてこの年南半球に行けば、ハレー彗星が見られることもこの話を受諾する後押しとなった。
 ハレー彗星は復路のインド洋上で観測できたが、残念ながら磁石の立つのは見られなかった。南磁極は昭和基地から遠く離れており、航路からも外れていからだ。
 期待された結果を得られなかったこともあり、先生への報告は20年後、定年退職し実家に帰ってからになった。宿題のつもりでレポートにまとめ、岩野のご自宅に届けると喜んで下さった。先生がお元気なうちに報告できて良かったと思っている。

人 『空腹こそ最強のクスリ』が40万部突破 養老孟司先生と対談の内科医 青木厚院長

 更埴西中出、高校第42回のご卒業。福井医科大卒業後、自治医科大大学院で糖尿病を中心とした内分泌代謝、動脈硬化分野の研究で医学博士。現在さいたま市内で「あおき内科さいたま糖尿病クリニック」院長のかたわら、メデイア出演や雑誌等での対談、執筆等多数。ご尊父は、ハンドボール界大御所の青木崇先生。

◯ 『プレジデント4月号』を拝見しました。先生ご自身が「プチ断食」により、舌癌を克服されたと伺いましたが
――― 40歳の時に舌癌を患い、死の恐怖を味わいました。内分泌代謝の臨床医として、これを全治させたことで、栄養代謝による、がん治療・予防をライフワークにしています。動脈硬化性疾患やがん再発予防により、患者さんの「よりよい明日のために」精進しています。
◯ 「空腹こそ最良のクスリ」と言われますが、そのメカニズムを教えて下さい。
―― 空腹は、体重や体脂肪を減少させ、糖尿病、がん、心筋梗塞や狭心症などの予防に効果があります。一日3食摂り、前に食べたものを消化している間に、次の食べ物が体内に入ってきますと、内臓は休むことなく働き続けなくてはなりません。当然内臓は疲弊してしまいます。
◯ 具体的な臓器の働きにあわせて、教えてください。
―― 肝臓や胃腸の働きが鈍くなりますと、栄養分をしっかり吸収できなくなりますし、老廃物もきちんと排出されなくなり、腸内環境も悪化するため、免疫力が低下し、病気にかかりやすくなるという訳です。これは、ノーベル賞の本庶佑博士の提唱した「オプジーボ療法」(元来ヒトの体内に備わっている免疫力を利用してガン細胞を攻撃)からヒントを頂いています。
◯ ところで、先生は、いつ頃から医師を目指されたのですか、高校時代のことなどお聞かせ下さい。
―― 高校時代、医療に関心は持っていましたが、担任の先生から「2浪しても無理」と言われてしまい、東京理科大理学部(物理科)に進学しました。そこで医学部付属病院に勤務する医師の息子さんの家庭教師を依頼され、教えているうちに「これくらいのお子様が医学部を目指すのなら・・」との思いから、卒業後に医学部を受験したわけです。「人間は過程的存在」とアレキシス・カレルが言いましたが、学力もそういう面がありますね。