活躍する同窓生

白鳥和生(高 37 回)著 「即!ビジネスで使える 新聞記者式伝わる文章術」

 日経新聞記者として30年、延べ一万本もの記事を作ってきた著者が、誰もが納得する文章を、速く、正確に書く技術を公開したもの。
 その技術とは、ファクト(客観的事実)、データ(数字)、ロジック(論理)の三要素が揃った「説得力」と「納得感」のある文章を速く書くことだという。このテクニックをもっと早く知っていたら、と思わせられた。最後の章では、《文章も品質管理を》と注意喚起した上で、《紙に印刷して音読を》と念を押してある。実行してみたのだが…。ダメ出しをされそうである。

(相談役 徳嵩芳夫)

柿﨑正義(高9回)他共著 「建築現場の チェックポイント」

 建物の欠陥責任の存続期間は品確法の10年の「契約不適合責任」と民法の20年の「不法行為責任」の両にらみで対応しなければ成らない時代を迎え、設計者・施工者にとって施主とのトラブルによる経営上のリスクが高まっている、と著者は記す。
 本書は、地盤構造・構造駆体・外装仕上げ・雨漏りの4編に分け、それぞれの現場での工程内容検査及びメンテナンス時に瑕疵の芽を摘む為にはどうしたらよいか、というチェックポイントをイラストを使いながら具体的に解説した専門的指南書である。

(副会長 吉川正徳)

ウクライナ支援を続ける  坂本龍太朗氏から現地報告

〈取材協力、新聞班〉

さかもと りょうたろう氏 屋代中出、高校第56回。柔道班OBで、現在、ポーランドに家族と在住。ワルシャワ日本語学校教頭。

ウクライナ支援の経緯
 ポーランドの大学院で学んでいた頃からウクライナ出身の同級生が多くいた。そのためウクライナで戦争が始まったと聞き「なんとかしなければならない」という気持ちになった。さらに自分の子どもと同じような歳の子どもたちが寒い中、国境で避難を待っているうちに亡くなってしまったというニュースを見て居ても立っても居られなくなった。ロシア語を話すことができたことが、支援を始める決意を確かなものにした。
支援の現実
 支援には大きく分けて3つがある。
 ウクライナ人家族の支援では行政手続きや通訳、その他の食費や服など含め行政からの支援はほとんどなく、現在は個人の負担となっているためここに一番お金と時間が割かれているのが現状。
 ポーランド国内に避難しているウクライナ人には車がない人の足になったり、SNSを使って連絡をとり、精神的な支援を行っている。またウクライナの国内避難民への支援は、一番支援が必要となっている。テントやマット、電気ヒーターや防寒具などの購入リストをもらうだけでいかに深刻な状況かが伝わる。

避難所の体育館の様子

ウクライナ国内の状況
 ロシア軍の支配下にある地域の情報はほとんど入ってこず、電気、ガスなどのライフラインが遮断されている地域に住んでいる人たちはスマホなども使えないため、どのくらいの人々が生き延びているのかもわからない。キーウやリビウなど比較的安定している地域もあるが、食べ物が不足しているという連絡や、国内避難民が多くいるためバスが足りないといった問題は多くある。
人々、学校の状況
 避難してきた大人は行政手続きを受けるために個人識別番号や銀行口座の開設などをしたり、仕事を探す。子どもたちはポーランドの幼稚園や学校に通っているが学校が避難場所になっている所も多く、勉強などができる環境ではなくなっている。避難している学生たちはポーランド語という言語の壁がある。
日本の中・高校生へ
 私は今、ポーランドでウクライナ支援を行なっていますが、必要となっている言語はポーランド語とロシア語、ウクライナ語です。今後も学校などで英語を学び続けると思いますが、将来その言語を使ってどう人を助けることができるか、人と人を繋ぐことができるのかを考えて学び続けてください。
▼坂本龍太朗(高56回)著
「日本を出て、日本を知る」

祝 創立100周年 わが青春を語る② 良き恩師・友に恵まれ夢をはぐくんだ高校生活

信州大学副学長・工学博士 天野良彦(高30回)

信州大学副学長で工学部長(学術研究院工学系長)の要職にあられる。生物機能科学がご専門で、地域におけるバイオマス資源を有効利用するための技術開発分野の第一人者。

 高校を卒業して、今年で45年が過ぎようとしている。長いようであっという間の出来事であった気もするが、高校時代の良き思い出が今の自分を作ってくれたように思う。とにかく高校時代は楽しかった。部活に麻雀、友人との駄弁り、それらのすべてが楽しくて、高校へ通うのが毎日励みとなっていた。
 まず、部活はバスケット班で、毎日練習に明け暮れた。顧問は山浦先生で、熱血な指導が今も思い起こされる。〈註1〉県大会の準決勝で延長の末負けはしたが、最高身長の生徒が180㎝に満たないチームが、190㎝台の選手がいるチームに勝つことができたのも、先生の考案した頭脳的なフォーメーションプレーのおかげであったと思う。自分はベンチウォマーであったが、部活がなければ高校生活は寂しいものであったであろう。
 また、インターハイに出場経験のある先輩方も練習を見に来ていただき、指導して頂いた。これも屋代高校の良き伝統であったと思う。自分の担任の宮入先生は数学の教科担当であり、熱血指導を頂いた。先生のお宅にも何度か遊びに行かせて頂き、卒業後もかわいがっていただいた。ただ残念なことに、先生は次の赴任校での指導中に現役でお亡くなりになられた。とても驚き悲しみのうちに、葬儀に参列させて頂いたことを記憶している。
 最後に、現在自分は大学で研究生活を送っているが、わが研究のルーツは屋高にあったことを知り、とても驚いた。キノコ菌のたんぱく質(酵素)の研究を行っているが、キノコの人工栽培技術を開発した長谷川五作先生や、私のボスのそのまたボスの西澤一俊先生〈註2〉も屋代高校のOBであった。本当に屋代高校のOBで良かったとつくづく思う次第である。

〈編集室・註〉
(1)  昭和40年代後半からのバスケットボール班は、山浦正孝先生の好指導により、県高校総体2連覇を遂げるなど、強豪チームとして活躍した。
(2) 西澤一俊先生
 塩崎村のご出身で、旧制中第2回の御卒業。東京教育大学(筑波大学の前身)理学部植物教室教授を務められた。旧制中時代、高等師範の理科を受験することは決めていたが、何学科を選べばよいかわからなかったので、長谷川五作先生に相談に行くと、「理科をやるなら、生命をもつ生物をやれ。」と言われ、進路を決めたことが書かれている。(『長谷川五作先生著作選集』(昭和43年、同窓会編)

祝 創立100周年 わが青春を語る② 懐かしきサッカー班よ

ヒーリングカフェ熊之助・店長 神 戸  聡(高29回)

大手製薬会社を退職後、戸隠村に「ヒーリングカフェ熊之助」を開設。「ヒーリング」の名称は、「神戸カウンセリング研究所」を都内で経営する奥様が、戸隠を訪れた際「その自然に感動して」つけられた。また「熊之助」は、この場所がご両親の別荘地で、祖父の熊之助氏が所有していたことに因む。

 屋代高校創立100周年、誠におめでとうございます。
 去年、友人から屋代高校の創立100周年の話、また同窓会館も新築されたことを聞き、ふと懐かしくなり、一人母校にお邪魔させていただきました。母校は校舎もすっかり新しくなり立派な同窓会館が併設され、まさに開校以来引き継がれてきた[質実剛健]の校風にぴったりの雰囲気に、心から感激しました。
 私は卒業以来、大学、社会人として地元を離れ、45年振りに母校に戻ってきたので、感激はひとしおであり、在学中のさまざまな思い出が交錯しました。特に強烈に思い出されたのは入学直後の応援団を中心とした先輩方の[教室まわり]です。怖くて弁当を半分も食べることが出来なかったことがつい昨日のように思いだされます。これも今となっては良き思い出であり、屋高の先輩、後輩関係の原点のような気さえしております。
 また私はサッカー班に所属し、山下キャプテン、合津先輩、多くの先輩方や仲間との出会いで、一期一会を実感しました。この共に汗を流した体験は、まさに私の貴重な青春です。
 微力の私ですが、今後とも屋高同窓生の皆様との交遊と親睦をはかり、母校発展のため尽力していきたいと考えております。同窓会員の皆様のなお一層のが活躍とご多幸を心よりお祈り申し上げます。
 末筆ながら赤地同窓会長、サポートして頂いているすべての方々に感謝いたします。