活躍する同窓生
祝 創立100周年 わが青春を語る② 懐かしきサッカー班よ
ヒーリングカフェ熊之助・店長 神 戸 聡(高29回)
大手製薬会社を退職後、戸隠村に「ヒーリングカフェ熊之助」を開設。「ヒーリング」の名称は、「神戸カウンセリング研究所」を都内で経営する奥様が、戸隠を訪れた際「その自然に感動して」つけられた。また「熊之助」は、この場所がご両親の別荘地で、祖父の熊之助氏が所有していたことに因む。 |
屋代高校創立100周年、誠におめでとうございます。
去年、友人から屋代高校の創立100周年の話、また同窓会館も新築されたことを聞き、ふと懐かしくなり、一人母校にお邪魔させていただきました。母校は校舎もすっかり新しくなり立派な同窓会館が併設され、まさに開校以来引き継がれてきた[質実剛健]の校風にぴったりの雰囲気に、心から感激しました。
私は卒業以来、大学、社会人として地元を離れ、45年振りに母校に戻ってきたので、感激はひとしおであり、在学中のさまざまな思い出が交錯しました。特に強烈に思い出されたのは入学直後の応援団を中心とした先輩方の[教室まわり]です。怖くて弁当を半分も食べることが出来なかったことがつい昨日のように思いだされます。これも今となっては良き思い出であり、屋高の先輩、後輩関係の原点のような気さえしております。
また私はサッカー班に所属し、山下キャプテン、合津先輩、多くの先輩方や仲間との出会いで、一期一会を実感しました。この共に汗を流した体験は、まさに私の貴重な青春です。
微力の私ですが、今後とも屋高同窓生の皆様との交遊と親睦をはかり、母校発展のため尽力していきたいと考えております。同窓会員の皆様のなお一層のが活躍とご多幸を心よりお祈り申し上げます。
末筆ながら赤地同窓会長、サポートして頂いているすべての方々に感謝いたします。
祝 創立100周年 わが青春を語る② 失敗は成功である
柳澤昭雄(高4回)
東京外語大英米・米ウイスコンシン大学院、(株)東京銀行、同ニューヨーク支店等を経て、東銀システム開発(株)でご退職。 |
昭和21年旧制中学最後の生徒として入学以来6年間屋代中学高校に学び、馬齢を重ねて現在88歳となりました。12年先輩となる屋代高校の創立百周年を感謝と共に祝します。
体が小さかった私のために母親が買ってくれた桐の高下駄で6年間も通学したことで、足腰が滅法強く発達しました。中学校に入って何よりも嬉しかったのは、生物の顕微鏡を始め物理や化学の実験道具が充実していて好奇心をこの上なく刺激してくれたことと、先生方が皆立派な紳士で服装もネクタイをキチンとしているだけでなく、教育者としての誇りと使命感に溢れておられることが感じ取れたことです。後になって自分の子供の成長を観察するにつけ、教育の力が如何に偉大で重要なものであるかを実感したものです。絵画や音楽もそうですが、不得意な体育、それから製図や算盤なども後の人生に大変役立つものでした。中でも好きな数学は本当に役に立ちました。
小学校時代は大東亜戦争の為に家では本を読むことを禁じられました。家で本などを読んでいては娑婆に出て役立たずの人間になってしまうので、家にいる間は常に身体を使って役に立つことをしておれというのです。宿題も出来ず、学校に行って休み時間にかたづけていたので、人一倍スピーディーに事務処理をする癖がつきました。
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中学校に入る頃になって初めて世の中には日本語と全く違う英語なんていう言葉があることを知り、何としてもこれをものにして今まで知らなかった世界を拡げたいという強い願望に取り付かれました。中学ではかなり英語教育に力を入れていて三人もの立派な先生が指導して下さっていたのに、一年を終わってみたらまるで英語というものが分かっていません。これではいけないと自習を工夫することにし、今から振り返ってみても涙ぐましい努力の結果、中学二年を終わった段階で、これで自分は英語というものが完全に分かったぞという自信を持つに至りました。80歳を過ぎてから恩返しのつもりで後輩のために「世界のどこに出しても恥ずかしくない英語を自習によって身に付ける方法」という小冊子を書いたのもこのためです。〈註〉 屋代高校卒業に当たっての私の最大の失敗は、色々なハプニングも重なり大学受験に失敗したことです。このことは今でも期待して下さった先生方に申し訳なかったと思っています。しかし滑り止めに受けておいた東京外国語大学の英米科に入学し、岩崎民平という大先生に四年間薫陶を受けたことはその後の人生の礎になりました。若い人に是非伝えたいことは、「人生は失敗の積み重ねで充実する、失敗は成功である」ということです。屋代高校のモットー「質実剛健」を何時も忘れないで前向きに精進努力して下さい。
〈編集室・註〉
柳澤氏は、米国勤務のなかで習得された「本場の英語」を、屋代高校附属中学生に伝授することを基本理念に、平成26~28年にかけて、『中学生のための英語教本』を自費出版されて、300冊を附属中学校にご寄贈された。
祝 創立100周年 わが青春を語る① 「初の女生徒です」
中条邦子(高5回)(元同窓会副会長・同窓会「マリーメイト鳩」役員)
しなの鉄道「屋代高校前駅」から沢山の高校生・中学生が降りて来ます。そんな駅も、新幹線も高速道路も全く無かった時代のことを書かせていただきます。
私は昭和25年4月に創立以来初めての女生徒として入学しました。式の当日、多数の上級生が教室の窓から顔を出し、大声で迎えて下さいました。ビックリです。式では女子の一人が堂々と宣誓をしました。
授業は移動教室で受講。国語、社会、数学、理科、英語、体育、芸術(美・書・音)。私達女子は前方の席に塊となっていました。いつもいつも一緒にいました。休み時間も、トイレに行く時も「ひとかたまり」でした。
班活動は庭球班。プールの隣にコンクリートのコートがあり、そこで練習しました。長野の城山での対外試合にも出ました。文化班では英会話などもしました。伝統ある「全校マラソン」―距離の差はありましたが、女子は屋代の街を走りました。生家の前を走り、家人の応援も受けました。
文化祭には食堂のお給仕をしたり、演劇班からはひっぱりダコでした。演目は菊池寛の「父帰る」。圧巻との由。
入学時8名だった女子は、二年生になった時には、転校や退学もあって6名になっていました。でも、先生方や生徒の皆様は本当に親切で紳士でいらっしゃいました。屋代の生徒でよかった、と思いました。
卒業と同時に、学校図書館が開設され、私はそこに勤めさせていただきました。また、隣に同窓会の部屋ができ、お手伝いもしました。遠い昔の物語です。
現在は「今の私にできること」は、と考え、同窓会の《結婚相談》のお仕事をさせていただいております。
祝 創立100周年 わが青春を語る① バスケットボールから 始まった我が高校時代
高野正樹(高10回)
(医療法人社団永高会会長・東京蒲田ロータリークラブ会員・奈良市興福寺財団法人理事長歴任)
66年前、私の高校生活はバスケットボールから始まり、3年の秋季大会まで、朝・昼・夕方、練習に明け暮れる日々を送った。試合にはあまり勝った記憶はないが、一瞬のひらめきで敵陣に切り込みシュートが成功した時の判断力と機敏さ、阿吽の呼吸でパスが巧く通った時の秘かな喜びとチームワークの大切さ、思い出深く、人間形成の土台となった。
しかし、3年夏の学期末試験で、バスケの滝沢先生から渡された英語『0点』は大ショック。それでも先生に、浪人は許されないが進学をしたいと相談したところ、思案の末、放課後の教員室で中学時代の英語の教科書の復讐を約3か月間一緒にやって頂き、他の先生からも「頑張っているな」と声を掛けられ、思えば、母校屋代の先生方のお蔭で、自分の今があり、故郷である。
大学はバスケットが強かった明治大学(商学部)に入学
でき、4年生時の就職選考試験の結果、就職課から「英語は芳しくないが、経済学はトップクラスの君の成績に合っている職場だと思う。推薦しよう」と、社団法人全国地方銀行協会に就職ができ、60歳、事務局長で卒業した。
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地銀協は、八十二銀行はじめ全国64行の頭取が毎月参集し、銀行経営の内外の諸問題について喧々諤々と議論をし、全国地銀の英知が集結された職場であった。30代から30年間、地銀界のみならず金融界・官界の真っただ中で生身の勉強と仕事を精一杯させてもらったお蔭で、毎日が午前様のフル稼働、人脈も多彩となり豊かな人生を過ごせたと実感している。
因みに、どの金融機関の店にも置いてある預金の「預け入れ」の伝票にも、預金の種類が「普通」「貯蓄」と並んでいるが、「貯蓄」の名付け親は、正真正銘この私である。
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60歳からは、縁あって、別世界の医療業界、往診専門の「蒲田クリニック」を「医師が医療・経営は高野」という二人三脚の新しい試みで開院することができた。
幸運にも、開院当初の22年前、母校の大先輩の医師瀬在幸安先生に、日本大学総長の時にお目にかかり、以来、枚挙にいとまがない薫陶、ご高配そして温かい励ましのお言葉を賜り続け、振り返れば、高齢化社会の到来でますます必要な「在宅医療」(訪問診療と訪問看護・リハビリ)の草分け的な役割を担うことができ、崇高な大先輩に大感謝です。クリニックには、瀬在先生の総長時代の書「現状維持は、退歩の始まり」を畏敬の念を持って掲げさせて頂いている。
※ 「東京鳩会会報」から掲載させていただきました。
祝 創立100周年 わが青春を語る① 戦争の中の中学時代
矢島久和(中18回4年制)(フレックスジャパン株式会社・相談役)
1941年、私は屋代中学に入学した。その年の12月8日に太平洋戦争が始まった。終わったのが1945年8月15日、陛下の玉音放送で無条件降伏したのであった。だから、私の中学生時代は戦争で始まり戦争で終わっている。
普通に教室で勉強できたのは2年生までである。3年生になると、農家へ手伝いに行ったり菅平に開墾に行ったりした。その時、力のある友達が私の隣で私の分
まで手伝ってくれた。大本営工事のモッコ担ぎや「どぶら」の埋め立てにも動員された。「どぶら」は昔千曲川の氾濫で出来た大きな池である。埋め立ての終わり
になると、池の魚が一杯寄り集まってきて壮観だった。特に大きな鯰が目についた。
屋代中学で忘れられない先生は長谷川五作先生(生物)と淡中益郎先生(校長・数学)である。この両先生に教わったことは私の生涯の宝である。
3年生の夏から秋にかけて三ヵ月間、木曽の山奥の発電所工事に動員され飯場暮らしをした。午前一回午後一回発破がかけられ、建物の陰に隠れて、飛んでくる破片を避けた。男らしい仕事だと思った。
当時の中学校は5年制で、4年が終わると上級学校を受験できた。目的の学校に入れなかったら中学に戻って5年生になればよかった。だから浪人しなくて済んだのである。ところが、私の時には戦争末期で4年生で総て打ち切りとなってしまった。私は或る専門学校へ入ったが、学校へ行くこともなく、横須賀の海軍工廠へ動員となったのだった。
4月半ばの夜、対岸の川崎重工業地帯に大空襲があった。横須賀から見ると、海を挟んで本当に目と鼻の先である。明日は我が身が生きて帰れるか、海軍工廠は一番狙われる所だからそんな覚悟をした。
8月15日、陛下の玉音放送を横須賀で聞いた。その私が93歳になった。私は今、生きている。
訃報 矢島久和氏は、この玉稿をお届けくださった直後の1月30日、老衰のためご逝去になられました(4面参照)。ご寄稿に感謝を申し上げ、心よりご冥福をお祈り申し上げます。