活躍する同窓生
東大野球部でベンチ入りを果たした 谷保梓樹君
たにほ あずき君 佐久市立中佐都小出、高72回。附属中でハンドボール班、高校から野球班で外野手として活躍。理科Ⅰ類に入学し、現在工学部都市工学科4年生。今春から背番号51の「学生コーチ」としてベンチ入りを果たした。写真は、去る5月5日の東大―早大戦で、3塁コーチャーズボックスに向かう谷保コーチ。(神宮球場)
○ 部員が108人、練習時間が一日5時間という東大野球部。「学生コーチ」としてよくぞ、ベンチ入れを果たされましたね。これまでの3年間、学業との両立等で退部を考えたことはなかったですか。
―― 私の工学部都市工学科は、演習が忙しいことで有名で、課題の発表直前期などは、夜通し作業して準備をしたり、授業時間<外でも多くの時間を割く必要があります。そのため、部活との両立という点で体力的・精神的に辛い瞬間は幾度となくありました。しかし、東大野球部は私が高校入学以来常に目標としていた場で、長く辛い受験勉強を経て長年の夢を手に入れることができた今、野球部の活動に全力を注がないという選択肢は一切ありませんでした。退部を考えたことも一度もありません。
○ 勉強時間はどうように確保されましたか。
―― 同期の仲間にも恵まれ、野球部活動も大変充実しており、楽しいものです。勉学面では、学科での活動やバイトなど、夜遅くなってしまうことが増えたため、高校時代のように午前3時に起きることはなくなりました。しかし、長年朝型生活を続けていたからか、夜に勉強等をする気にはなれないので、早く寝てその分早く起きて勉強や作業をしています。
○ 練習時間帯や「学生コーチ」の任務とやりがいについて教えてください。
―― 部員数は1年生が入り100名を超し、全員で行うと効率が悪いので、A/Bの2班に分かれて行います。午前中にAチーム、午後にBチームで、私はAチームを担当し、練習時間は7 :45―12:30です。学生コーチは私を含め8人いて、その役割は練習計画や運営、ノックを打つこと、監督助監督と選手起用の相談等です。私はこれに加え三塁コーチをやっております。
やり甲斐は、打つノックによって選手が上手くなっていく様子を感じること、三塁コーチとしてはシングルヒットで、2つ分塁を進める走塁のサポートができた時に喜びを感じます。野球は非常に複雑で奥が深いスポーツですが、三塁コーチになって、走塁について考えることが多くなり、その度に野球の奥深さと面白さを実感しています。
○ 都市工学科都市工学コースについて、聞かせてください。
―― 高校生の時から「まちづくり」に興味のあった私にとって、進学を希望していた学科で、現在非常に充実しています。本学科では「まち」を形作るルールである「都市計画」を中心に、専門的な知識等を学び、具体的には土地利用計画論、住宅論、緑地計画論、コミュニティデザイン論、防災、まちづくりに関する法と訴訟、広域計画、交通論などです。週に6コマ設定されている演習では、池袋の集合住宅設計、東京都市圏の将来都市構造、横須賀市を舞台とした都市計画マスタープランの策定、ダウンタウン単位で都市更新などの演習を行いました。
これに加え、自分は、一級建築士資格の取得を目指し、建築学科の授業も履修しています。4年生になり「空間デザイン」を扱う研究室に配属となり、駅前空間のデザインや広場の設計、ストリートのデザインなど、都市に関する分析とそれを踏まえた空間提案色が強い研究室です。
○ ご自分の研究テーマや来年4月からの予定は?
―― 去る4月配属されたばかりで、具体的な研究テーマ等の決定はまだ先ですが、私は「地上駅によるまちの分断の解消」をテーマとした研究・設計を考えています。来年4月以降は、大学院進学を希望していますが、院試は未実施なので現時点では進路は未定です
祝 創立100周年わが青春を語る③ 我が青春と人生の道程(みちのり)
南嶋俊三(旧姓飯島)(高21回)(元阿南高校長、前阿南町教育長)
私の青春と人生を支えてくれた競技歴、職業歴について記させていただきます。
私の競技歴は、陸上競技の棒高跳びから始まりました。中学3年のこと、担任の先生が棒高跳びの選手であり、その先生に勧められて始めたのです。その頃は竹でしたが、始めたその年の県中学放送陸上で3m10を跳び優勝。それから病みつきになりました。屋代高校に進学し、陸上部顧問の藤本勝彦先生のご指導をいただきました。その間、個人優勝や、屋代高校初の陸上競技の県大会優勝を成し遂げました。高校の3年間でインターハイや国体をはじめ、諸大会に出場し、全国各地を廻るなど素晴らしい経験をさせていただきました。
高校卒業後、順天堂大学に進学し、引き続き棒高跳びに専念しました。大学となると、全国から高校時代に活躍した選手が多く入学してきて、私などは記録的にも低レベルな存在でした。練習も、高いレベルの選手の補助に回る毎日で、自分の練習は一流選手の練習が終わってからでした。記録も思うように伸びず、1・2年の頃は心身の疲れで悩むこともありました。進級するにつれて精神的にも安定して記録も伸び、4年生の時には全日本大学陸上競技選手権大会(インターカレッジ)に出場し、初めての出場で5位に入賞。これが順大総合優勝の魁(さきがけ)となる得点でした。入学以来初めて監督から褒めていただいたことは今でも忘れません。「地道に努力すればいつかは結果が出て光が当たるものだ」ということを胸に刻みました。
大学卒業後は下伊那郡阿南町の阿南高校で教員としてのスタートを切り、その一年目に幸運なことに沖縄復帰記念国体が開催され、教員の部で4m50を跳び優勝しました。その写真が昭和48年5月6日の朝刊に掲載され、帰郷すると大歓迎を受け、西沢権一郎県知事を訪問しトロフィーをいただきました。最後の最後で結果を出し、花を咲かすことができ、素晴らしい競技人生でした。
私が教員を目指すきっかけとなったのは、前述したとおり中学校の担任が体育の先生だったからです。棒高跳びを教えてくれたその方が私の目標でした。初任校の阿南の地に縁があり、そこに生涯生活することになりましたが、気候温暖、人も丸く、生活地盤としては最高の地と思っています。
この阿南の地を基盤として2校を経験し、幅広い知識を求めて、社会教育の方面で国立乗鞍青年の家、阿智村社会教育主事など違った分野で多くの経験もさせていただきました。それらの経験をもとに、教頭、校長を経て37年間の教員生活にピリオドを打ちました。その後は阿南町教育長をやらせていただき、71歳まで現役を続けることができました。一日も欠勤することなく、50年を全うできたことは実に有難く、健康な身体に産んでくれた両親に感謝しています。
祝 創立100周年わが青春を語る③ 屋代中学生時代回顧
市川 誠(中15回・98歳)(信州大学名誉教授・工学博士)
母校創立100周年をお祝い申し上げます。
私達中15回生は、埴科中学校(屋代中学校)創立の翌年大正13年度に誕生しました。私は母校の創立100周年に際し、自己の来し方などに照らし、感慨深いものがあります。
私達の小学校入学の昭和6年に、満州事変、中学校入学の昭和12年に支那事変(日中戦争)、中学5年生の昭和16年に大東亜戦争(太平洋戦争)が始まりました。そして、終戦の約3年半前、昭和17年3月、屋代中学校を卒業しました。
私達は、このような戦争の拡大が進む時に屋代中学生でした。そして、この間の重大事として記憶に強く残っているのは、「軍事教育訓練を受けた」ということです。
教練という科目で、配属将校と呼ばれた現役軍人を教師に、授業は他科目と同様、毎週ありました。校庭を仮想戦場としての訓練、教室での軍人必携小冊子(軍人の日常から戦場の規律まで)の解説などが進みました。戦争の最中で青少年は救国心身高揚を求められ、各種の宣伝・報道や行事がありました。手榴弾の投擲距離を含む各種の力量を調べる体力章検定制度に、練習から測定検査まで教練の授業時間が当てられました。
こんな環境にあって、学年が進むにつれ、私自身は報国の気運が芽生えたように感じました。5年生になると、校内の銃器庫に保管されていた38式歩兵銃を携えての訓練となりました。銃は16歳の私達に、大きく、重く、身体に馴染まず、操作の難しい貴重物でした。
訓練は実戦的となり、配属将校を隊長として、銃を担って、盛夏の流汗と肩の痛みに堪えながらの八幡神社参拝の行軍、時雨の秋に近隣中学校との川中島・篠ノ井地区における夜を徹しての一泊の合同演習があり、最後に中尾山射撃場における実弾射撃まで経験しました。
私は、中学4年生の秋、弓道で長野県中等学校の代表として、明治神宮国民体育大会に出場しました。出発の早朝、屋代駅に集合して、応援下さった当時の在校生の皆様にここで御礼申し上げます。
祝 創立100周年わが青春を語る③ 中学時代の宿題を還暦で提出
柳原 健(高14回)(第27次南極観測隊随行)
南極観測は私の中学生の時に始まった。理科の青木元雄先生(中15回、後に同窓会本部の事務局長も務めた)は、授業中ご自身の経験に基づいた話を沢山して下さった。その中で南極に関係した二つの話を記憶している。「僕は南極へ行かなくてもオーロラを見ることが出来た」「もし南極へ行けたら磁石が立つのを見たい」
それから25年、私は南極行きのチャンスに恵まれた。当時私は運輸省の船舶技術研究所に勤めていた。オイルショック後のエネルギー事情の変化で、アラスカから石油を運搬するようになった時、砕氷商船が必要になる。研究所では南極観測船「しらせ」の氷海航行性能計測を実施することになり、第27次観測隊に同行するように話があった
咄嗟に中学時代に聞いた「磁石の話」を思い出して引き受けた。そしてこの年南半球に行けば、ハレー彗星が見られることもこの話を受諾する後押しとなった。
ハレー彗星は復路のインド洋上で観測できたが、残念ながら磁石の立つのは見られなかった。南磁極は昭和基地から遠く離れており、航路からも外れていからだ。
期待された結果を得られなかったこともあり、先生への報告は20年後、定年退職し実家に帰ってからになった。宿題のつもりでレポートにまとめ、岩野のご自宅に届けると喜んで下さった。先生がお元気なうちに報告できて良かったと思っている。
The People of the Year 2022 「今年度活躍した人」賞に9氏と生徒等
人 『空腹こそ最強のクスリ』が40万部突破 養老孟司先生と対談の内科医 青木厚院長
更埴西中出、高校第42回のご卒業。福井医科大卒業後、自治医科大大学院で糖尿病を中心とした内分泌代謝、動脈硬化分野の研究で医学博士。現在さいたま市内で「あおき内科さいたま糖尿病クリニック」院長のかたわら、メデイア出演や雑誌等での対談、執筆等多数。ご尊父は、ハンドボール界大御所の青木崇先生。
◯ 『プレジデント4月号』を拝見しました。先生ご自身が「プチ断食」により、舌癌を克服されたと伺いましたが
――― 40歳の時に舌癌を患い、死の恐怖を味わいました。内分泌代謝の臨床医として、これを全治させたことで、栄養代謝による、がん治療・予防をライフワークにしています。動脈硬化性疾患やがん再発予防により、患者さんの「よりよい明日のために」精進しています。
◯ 「空腹こそ最良のクスリ」と言われますが、そのメカニズムを教えて下さい。
―― 空腹は、体重や体脂肪を減少させ、糖尿病、がん、心筋梗塞や狭心症などの予防に効果があります。一日3食摂り、前に食べたものを消化している間に、次の食べ物が体内に入ってきますと、内臓は休むことなく働き続けなくてはなりません。当然内臓は疲弊してしまいます。
◯ 具体的な臓器の働きにあわせて、教えてください。
―― 肝臓や胃腸の働きが鈍くなりますと、栄養分をしっかり吸収できなくなりますし、老廃物もきちんと排出されなくなり、腸内環境も悪化するため、免疫力が低下し、病気にかかりやすくなるという訳です。これは、ノーベル賞の本庶佑博士の提唱した「オプジーボ療法」(元来ヒトの体内に備わっている免疫力を利用してガン細胞を攻撃)からヒントを頂いています。
◯ ところで、先生は、いつ頃から医師を目指されたのですか、高校時代のことなどお聞かせ下さい。
―― 高校時代、医療に関心は持っていましたが、担任の先生から「2浪しても無理」と言われてしまい、東京理科大理学部(物理科)に進学しました。そこで医学部付属病院に勤務する医師の息子さんの家庭教師を依頼され、教えているうちに「これくらいのお子様が医学部を目指すのなら・・」との思いから、卒業後に医学部を受験したわけです。「人間は過程的存在」とアレキシス・カレルが言いましたが、学力もそういう面がありますね。
白鳥和生(高 37 回)著 「即!ビジネスで使える 新聞記者式伝わる文章術」
日経新聞記者として30年、延べ一万本もの記事を作ってきた著者が、誰もが納得する文章を、速く、正確に書く技術を公開したもの。
その技術とは、ファクト(客観的事実)、データ(数字)、ロジック(論理)の三要素が揃った「説得力」と「納得感」のある文章を速く書くことだという。このテクニックをもっと早く知っていたら、と思わせられた。最後の章では、《文章も品質管理を》と注意喚起した上で、《紙に印刷して音読を》と念を押してある。実行してみたのだが…。ダメ出しをされそうである。
(相談役 徳嵩芳夫)
柿﨑正義(高9回)他共著 「建築現場の チェックポイント」
建物の欠陥責任の存続期間は品確法の10年の「契約不適合責任」と民法の20年の「不法行為責任」の両にらみで対応しなければ成らない時代を迎え、設計者・施工者にとって施主とのトラブルによる経営上のリスクが高まっている、と著者は記す。
本書は、地盤構造・構造駆体・外装仕上げ・雨漏りの4編に分け、それぞれの現場での工程内容検査及びメンテナンス時に瑕疵の芽を摘む為にはどうしたらよいか、というチェックポイントをイラストを使いながら具体的に解説した専門的指南書である。
(副会長 吉川正徳)
ウクライナ支援を続ける 坂本龍太朗氏から現地報告
〈取材協力、新聞班〉
さかもと りょうたろう氏 屋代中出、高校第56回。柔道班OBで、現在、ポーランドに家族と在住。ワルシャワ日本語学校教頭。 |
ウクライナ支援の経緯
ポーランドの大学院で学んでいた頃からウクライナ出身の同級生が多くいた。そのためウクライナで戦争が始まったと聞き「なんとかしなければならない」という気持ちになった。さらに自分の子どもと同じような歳の子どもたちが寒い中、国境で避難を待っているうちに亡くなってしまったというニュースを見て居ても立っても居られなくなった。ロシア語を話すことができたことが、支援を始める決意を確かなものにした。
支援の現実
支援には大きく分けて3つがある。
ウクライナ人家族の支援では行政手続きや通訳、その他の食費や服など含め行政からの支援はほとんどなく、現在は個人の負担となっているためここに一番お金と時間が割かれているのが現状。
ポーランド国内に避難しているウクライナ人には車がない人の足になったり、SNSを使って連絡をとり、精神的な支援を行っている。またウクライナの国内避難民への支援は、一番支援が必要となっている。テントやマット、電気ヒーターや防寒具などの購入リストをもらうだけでいかに深刻な状況かが伝わる。
避難所の体育館の様子
ウクライナ国内の状況
ロシア軍の支配下にある地域の情報はほとんど入ってこず、電気、ガスなどのライフラインが遮断されている地域に住んでいる人たちはスマホなども使えないため、どのくらいの人々が生き延びているのかもわからない。キーウやリビウなど比較的安定している地域もあるが、食べ物が不足しているという連絡や、国内避難民が多くいるためバスが足りないといった問題は多くある。
人々、学校の状況
避難してきた大人は行政手続きを受けるために個人識別番号や銀行口座の開設などをしたり、仕事を探す。子どもたちはポーランドの幼稚園や学校に通っているが学校が避難場所になっている所も多く、勉強などができる環境ではなくなっている。避難している学生たちはポーランド語という言語の壁がある。
日本の中・高校生へ
私は今、ポーランドでウクライナ支援を行なっていますが、必要となっている言語はポーランド語とロシア語、ウクライナ語です。今後も学校などで英語を学び続けると思いますが、将来その言語を使ってどう人を助けることができるか、人と人を繋ぐことができるのかを考えて学び続けてください。
▼坂本龍太朗(高56回)著
「日本を出て、日本を知る」
祝 創立100周年 わが青春を語る② 良き恩師・友に恵まれ夢をはぐくんだ高校生活
信州大学副学長・工学博士 天野良彦(高30回)
信州大学副学長で工学部長(学術研究院工学系長)の要職にあられる。生物機能科学がご専門で、地域におけるバイオマス資源を有効利用するための技術開発分野の第一人者。 |
高校を卒業して、今年で45年が過ぎようとしている。長いようであっという間の出来事であった気もするが、高校時代の良き思い出が今の自分を作ってくれたように思う。とにかく高校時代は楽しかった。部活に麻雀、友人との駄弁り、それらのすべてが楽しくて、高校へ通うのが毎日励みとなっていた。
まず、部活はバスケット班で、毎日練習に明け暮れた。顧問は山浦先生で、熱血な指導が今も思い起こされる。〈註1〉県大会の準決勝で延長の末負けはしたが、最高身長の生徒が180㎝に満たないチームが、190㎝台の選手がいるチームに勝つことができたのも、先生の考案した頭脳的なフォーメーションプレーのおかげであったと思う。自分はベンチウォマーであったが、部活がなければ高校生活は寂しいものであったであろう。
また、インターハイに出場経験のある先輩方も練習を見に来ていただき、指導して頂いた。これも屋代高校の良き伝統であったと思う。自分の担任の宮入先生は数学の教科担当であり、熱血指導を頂いた。先生のお宅にも何度か遊びに行かせて頂き、卒業後もかわいがっていただいた。ただ残念なことに、先生は次の赴任校での指導中に現役でお亡くなりになられた。とても驚き悲しみのうちに、葬儀に参列させて頂いたことを記憶している。
最後に、現在自分は大学で研究生活を送っているが、わが研究のルーツは屋高にあったことを知り、とても驚いた。キノコ菌のたんぱく質(酵素)の研究を行っているが、キノコの人工栽培技術を開発した長谷川五作先生や、私のボスのそのまたボスの西澤一俊先生〈註2〉も屋代高校のOBであった。本当に屋代高校のOBで良かったとつくづく思う次第である。
〈編集室・註〉
(1) 昭和40年代後半からのバスケットボール班は、山浦正孝先生の好指導により、県高校総体2連覇を遂げるなど、強豪チームとして活躍した。
(2) 西澤一俊先生
塩崎村のご出身で、旧制中第2回の御卒業。東京教育大学(筑波大学の前身)理学部植物教室教授を務められた。旧制中時代、高等師範の理科を受験することは決めていたが、何学科を選べばよいかわからなかったので、長谷川五作先生に相談に行くと、「理科をやるなら、生命をもつ生物をやれ。」と言われ、進路を決めたことが書かれている。(『長谷川五作先生著作選集』(昭和43年、同窓会編)
祝 創立100周年 わが青春を語る② 懐かしきサッカー班よ
ヒーリングカフェ熊之助・店長 神 戸 聡(高29回)
大手製薬会社を退職後、戸隠村に「ヒーリングカフェ熊之助」を開設。「ヒーリング」の名称は、「神戸カウンセリング研究所」を都内で経営する奥様が、戸隠を訪れた際「その自然に感動して」つけられた。また「熊之助」は、この場所がご両親の別荘地で、祖父の熊之助氏が所有していたことに因む。 |
屋代高校創立100周年、誠におめでとうございます。
去年、友人から屋代高校の創立100周年の話、また同窓会館も新築されたことを聞き、ふと懐かしくなり、一人母校にお邪魔させていただきました。母校は校舎もすっかり新しくなり立派な同窓会館が併設され、まさに開校以来引き継がれてきた[質実剛健]の校風にぴったりの雰囲気に、心から感激しました。
私は卒業以来、大学、社会人として地元を離れ、45年振りに母校に戻ってきたので、感激はひとしおであり、在学中のさまざまな思い出が交錯しました。特に強烈に思い出されたのは入学直後の応援団を中心とした先輩方の[教室まわり]です。怖くて弁当を半分も食べることが出来なかったことがつい昨日のように思いだされます。これも今となっては良き思い出であり、屋高の先輩、後輩関係の原点のような気さえしております。
また私はサッカー班に所属し、山下キャプテン、合津先輩、多くの先輩方や仲間との出会いで、一期一会を実感しました。この共に汗を流した体験は、まさに私の貴重な青春です。
微力の私ですが、今後とも屋高同窓生の皆様との交遊と親睦をはかり、母校発展のため尽力していきたいと考えております。同窓会員の皆様のなお一層のが活躍とご多幸を心よりお祈り申し上げます。
末筆ながら赤地同窓会長、サポートして頂いているすべての方々に感謝いたします。
祝 創立100周年 わが青春を語る② 失敗は成功である
柳澤昭雄(高4回)
東京外語大英米・米ウイスコンシン大学院、(株)東京銀行、同ニューヨーク支店等を経て、東銀システム開発(株)でご退職。 |
昭和21年旧制中学最後の生徒として入学以来6年間屋代中学高校に学び、馬齢を重ねて現在88歳となりました。12年先輩となる屋代高校の創立百周年を感謝と共に祝します。
体が小さかった私のために母親が買ってくれた桐の高下駄で6年間も通学したことで、足腰が滅法強く発達しました。中学校に入って何よりも嬉しかったのは、生物の顕微鏡を始め物理や化学の実験道具が充実していて好奇心をこの上なく刺激してくれたことと、先生方が皆立派な紳士で服装もネクタイをキチンとしているだけでなく、教育者としての誇りと使命感に溢れておられることが感じ取れたことです。後になって自分の子供の成長を観察するにつけ、教育の力が如何に偉大で重要なものであるかを実感したものです。絵画や音楽もそうですが、不得意な体育、それから製図や算盤なども後の人生に大変役立つものでした。中でも好きな数学は本当に役に立ちました。
小学校時代は大東亜戦争の為に家では本を読むことを禁じられました。家で本などを読んでいては娑婆に出て役立たずの人間になってしまうので、家にいる間は常に身体を使って役に立つことをしておれというのです。宿題も出来ず、学校に行って休み時間にかたづけていたので、人一倍スピーディーに事務処理をする癖がつきました。
◆
中学校に入る頃になって初めて世の中には日本語と全く違う英語なんていう言葉があることを知り、何としてもこれをものにして今まで知らなかった世界を拡げたいという強い願望に取り付かれました。中学ではかなり英語教育に力を入れていて三人もの立派な先生が指導して下さっていたのに、一年を終わってみたらまるで英語というものが分かっていません。これではいけないと自習を工夫することにし、今から振り返ってみても涙ぐましい努力の結果、中学二年を終わった段階で、これで自分は英語というものが完全に分かったぞという自信を持つに至りました。80歳を過ぎてから恩返しのつもりで後輩のために「世界のどこに出しても恥ずかしくない英語を自習によって身に付ける方法」という小冊子を書いたのもこのためです。〈註〉 屋代高校卒業に当たっての私の最大の失敗は、色々なハプニングも重なり大学受験に失敗したことです。このことは今でも期待して下さった先生方に申し訳なかったと思っています。しかし滑り止めに受けておいた東京外国語大学の英米科に入学し、岩崎民平という大先生に四年間薫陶を受けたことはその後の人生の礎になりました。若い人に是非伝えたいことは、「人生は失敗の積み重ねで充実する、失敗は成功である」ということです。屋代高校のモットー「質実剛健」を何時も忘れないで前向きに精進努力して下さい。
〈編集室・註〉
柳澤氏は、米国勤務のなかで習得された「本場の英語」を、屋代高校附属中学生に伝授することを基本理念に、平成26~28年にかけて、『中学生のための英語教本』を自費出版されて、300冊を附属中学校にご寄贈された。
祝 創立100周年 わが青春を語る① 「初の女生徒です」
中条邦子(高5回)(元同窓会副会長・同窓会「マリーメイト鳩」役員)
しなの鉄道「屋代高校前駅」から沢山の高校生・中学生が降りて来ます。そんな駅も、新幹線も高速道路も全く無かった時代のことを書かせていただきます。
私は昭和25年4月に創立以来初めての女生徒として入学しました。式の当日、多数の上級生が教室の窓から顔を出し、大声で迎えて下さいました。ビックリです。式では女子の一人が堂々と宣誓をしました。
授業は移動教室で受講。国語、社会、数学、理科、英語、体育、芸術(美・書・音)。私達女子は前方の席に塊となっていました。いつもいつも一緒にいました。休み時間も、トイレに行く時も「ひとかたまり」でした。
班活動は庭球班。プールの隣にコンクリートのコートがあり、そこで練習しました。長野の城山での対外試合にも出ました。文化班では英会話などもしました。伝統ある「全校マラソン」―距離の差はありましたが、女子は屋代の街を走りました。生家の前を走り、家人の応援も受けました。
文化祭には食堂のお給仕をしたり、演劇班からはひっぱりダコでした。演目は菊池寛の「父帰る」。圧巻との由。
入学時8名だった女子は、二年生になった時には、転校や退学もあって6名になっていました。でも、先生方や生徒の皆様は本当に親切で紳士でいらっしゃいました。屋代の生徒でよかった、と思いました。
卒業と同時に、学校図書館が開設され、私はそこに勤めさせていただきました。また、隣に同窓会の部屋ができ、お手伝いもしました。遠い昔の物語です。
現在は「今の私にできること」は、と考え、同窓会の《結婚相談》のお仕事をさせていただいております。
祝 創立100周年 わが青春を語る① バスケットボールから 始まった我が高校時代
高野正樹(高10回)
(医療法人社団永高会会長・東京蒲田ロータリークラブ会員・奈良市興福寺財団法人理事長歴任)
66年前、私の高校生活はバスケットボールから始まり、3年の秋季大会まで、朝・昼・夕方、練習に明け暮れる日々を送った。試合にはあまり勝った記憶はないが、一瞬のひらめきで敵陣に切り込みシュートが成功した時の判断力と機敏さ、阿吽の呼吸でパスが巧く通った時の秘かな喜びとチームワークの大切さ、思い出深く、人間形成の土台となった。
しかし、3年夏の学期末試験で、バスケの滝沢先生から渡された英語『0点』は大ショック。それでも先生に、浪人は許されないが進学をしたいと相談したところ、思案の末、放課後の教員室で中学時代の英語の教科書の復讐を約3か月間一緒にやって頂き、他の先生からも「頑張っているな」と声を掛けられ、思えば、母校屋代の先生方のお蔭で、自分の今があり、故郷である。
大学はバスケットが強かった明治大学(商学部)に入学
でき、4年生時の就職選考試験の結果、就職課から「英語は芳しくないが、経済学はトップクラスの君の成績に合っている職場だと思う。推薦しよう」と、社団法人全国地方銀行協会に就職ができ、60歳、事務局長で卒業した。
◆
地銀協は、八十二銀行はじめ全国64行の頭取が毎月参集し、銀行経営の内外の諸問題について喧々諤々と議論をし、全国地銀の英知が集結された職場であった。30代から30年間、地銀界のみならず金融界・官界の真っただ中で生身の勉強と仕事を精一杯させてもらったお蔭で、毎日が午前様のフル稼働、人脈も多彩となり豊かな人生を過ごせたと実感している。
因みに、どの金融機関の店にも置いてある預金の「預け入れ」の伝票にも、預金の種類が「普通」「貯蓄」と並んでいるが、「貯蓄」の名付け親は、正真正銘この私である。
◆
60歳からは、縁あって、別世界の医療業界、往診専門の「蒲田クリニック」を「医師が医療・経営は高野」という二人三脚の新しい試みで開院することができた。
幸運にも、開院当初の22年前、母校の大先輩の医師瀬在幸安先生に、日本大学総長の時にお目にかかり、以来、枚挙にいとまがない薫陶、ご高配そして温かい励ましのお言葉を賜り続け、振り返れば、高齢化社会の到来でますます必要な「在宅医療」(訪問診療と訪問看護・リハビリ)の草分け的な役割を担うことができ、崇高な大先輩に大感謝です。クリニックには、瀬在先生の総長時代の書「現状維持は、退歩の始まり」を畏敬の念を持って掲げさせて頂いている。
※ 「東京鳩会会報」から掲載させていただきました。
祝 創立100周年 わが青春を語る① 戦争の中の中学時代
矢島久和(中18回4年制)(フレックスジャパン株式会社・相談役)
1941年、私は屋代中学に入学した。その年の12月8日に太平洋戦争が始まった。終わったのが1945年8月15日、陛下の玉音放送で無条件降伏したのであった。だから、私の中学生時代は戦争で始まり戦争で終わっている。
普通に教室で勉強できたのは2年生までである。3年生になると、農家へ手伝いに行ったり菅平に開墾に行ったりした。その時、力のある友達が私の隣で私の分
まで手伝ってくれた。大本営工事のモッコ担ぎや「どぶら」の埋め立てにも動員された。「どぶら」は昔千曲川の氾濫で出来た大きな池である。埋め立ての終わり
になると、池の魚が一杯寄り集まってきて壮観だった。特に大きな鯰が目についた。
屋代中学で忘れられない先生は長谷川五作先生(生物)と淡中益郎先生(校長・数学)である。この両先生に教わったことは私の生涯の宝である。
3年生の夏から秋にかけて三ヵ月間、木曽の山奥の発電所工事に動員され飯場暮らしをした。午前一回午後一回発破がかけられ、建物の陰に隠れて、飛んでくる破片を避けた。男らしい仕事だと思った。
当時の中学校は5年制で、4年が終わると上級学校を受験できた。目的の学校に入れなかったら中学に戻って5年生になればよかった。だから浪人しなくて済んだのである。ところが、私の時には戦争末期で4年生で総て打ち切りとなってしまった。私は或る専門学校へ入ったが、学校へ行くこともなく、横須賀の海軍工廠へ動員となったのだった。
4月半ばの夜、対岸の川崎重工業地帯に大空襲があった。横須賀から見ると、海を挟んで本当に目と鼻の先である。明日は我が身が生きて帰れるか、海軍工廠は一番狙われる所だからそんな覚悟をした。
8月15日、陛下の玉音放送を横須賀で聞いた。その私が93歳になった。私は今、生きている。
訃報 矢島久和氏は、この玉稿をお届けくださった直後の1月30日、老衰のためご逝去になられました(4面参照)。ご寄稿に感謝を申し上げ、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
The People of the Year 「今年度活躍した人」賞に9氏、生徒2名
小島良太君(高 69 回) スピードスケートで北京オリンピックへ
小島良太君(高69回)は11月のワールドカップ代表選考会の1000mで初優勝したのに続いて、12月30日(木)、エムウェーブで行われた北京五輪代表選考
会で、国内最高記録(1分8秒35)で1位となり、初のオリンピック出場を決めた。屋代高校の歴史の中で、オリンピック代表選手は初めての快挙である。この
快挙に対して同窓会では、去る1月19 日(水)にコロナ対策を万全にした上で、「小島良太君激励会」を同窓会館で開催し、北京での活躍を祈った。
写真は、伊藤誠悟君〈高71回・早大スケート部主将〉から
コンピュータを用いた化学反応のヴァーチャル実験(註1 ) を目指して
第18回屋高フォーラム(生徒会誌々上)
令和3年10月9日(土)に開催予定であった「屋高フォーラム」は、新型肺炎の感染拡大により、学校と協議の結果、昨年に続き生徒会誌『鳩陵』への誌上開催とさせていただきました。
北海道大学化学反応創成研究拠点・拠点長 前田 理 氏
(2021年ノーベル化学賞リスト教授の共同研究者)
【講演要旨】
すべての物質は原子を構成単位として成り立っているが、なぜ構成単位が分かっていながらその挙動を自在に明らかにすることができないのか、という小学生時代の疑問が、今の研究の原点となっている。そして今、コンピュータと量子化学計算を用いて、この課題を世界に先駆けて開発することに成功した。化学反応は、分子が安定な構造から別の安定な構造へと変化する過程であるから、反応物の構造から生成物の構造へと分子が変化する過程を調べれば、化学反応における分子の挙動を明らかにできるが、例えば1点当たり1分で計算できたとしても、1030秒(317垓年)要してしまい、これを調べることが不可能になってしまう。
◆
この課題に、前田教授は、人工力誘起反応(AFIR)法(註2)という計算法を開発し解決した。この未知の化学反応の予測を可能にしたAFIR法により、分子をコンピュータ上で混合し、得られる反応経路ネットワークから生成物と反応機構を予測する、いわばヴァーチャル実験が可能になった。未知の化学反応を予測する夢の実現への大きな一歩であると位置付けられる。現在、ヴァーチャル実験の結果に基づいてリアル実験を実施し、新反応を見つけ出す、計算主導の新反応開発への挑戦を進めている。
◆
化学反応創成研究メンバーの一人である、リスト教授(ドイツ・マックスプランク石炭化学研究所)は、2021年ノーベル化学賞を受賞したが、同教授は、創設当初からここのメンバーとして参加してくれており、世帯的にも注目された研究分野である。
〈同窓会編集室による脚注〉
(註1) virtual 「現実そっくりに作られ、現実の世界であるかのような」実験
(註2) 人工力誘起反応 ArtificialForce Induced Reactionの略
まえだ さとし氏。高校第50回(平成10年理数科)のご卒業。平成19年(2007年)3月東北大学大学院理学研究院より博士学位(理学)を取得。日本学術振興会特別研究員PD、京都大学白眉プロジェクト・特定助教、北大大学院理学研究院准教授等を経て、平成29年(2017年)より現職。
令和3年春の叙勲
次の方が受章されました。誠におめでとうございます。
(敬称略)
▼瑞宝中綬章
近藤慶之(高10回)現住所 千曲市
▼旭日小綬章
原 利夫(高6回)現住所 千曲市
▼瑞宝双光章
佐藤則善(高4回)現住所 長野市
人 千曲市内に初の精神科クリニックを 開院された 富永見佳院長
◯ 千曲市での精神科クリニックは初と承りましたが、島田クリニック(島田一秀院長、高31回)) の「神経内科」とは、どう違いますか?
―― 神経内科は、内科の一つの分野で、脳・脊髄・神経・筋肉等の病気を診ます。それに対して、精神科は、精神的な原因による気分や身体的な症状を扱う領域で、心療内科や神経科がこれに入りますね。
◯ 精神科医を目指すことになった動機など、教えて下さい。
―― 駒ヶ根市や静岡県の医療センターで研修医をしていた時に、精神科は、「人の生き方、いかに生きるか」という面で、患者さんをサポートできる分野だと感じたことが大きかったですね。現代のストレス社会の中で、患者さんの生き方をサポートすることを使命にしたいと思っています。
◯ 開院されて2か月、患者さんの中で青少年の占める比率はどのくらいですか?
―― 10代、20代の若い方は、全体の3割くらいを占めています。しかし比較的軽症な患者さんが殆どで安堵していますが、ストレスやSNS等ネット社会の影響を感じています。外来診療のほか、オンライン診療や訪問看護を含めて、お役に立てる医療を目指してまいります。
◯ 最後に、高校時代の思い出や、後輩の生徒達にひと言お願いできますか。
―― 高校では美術班に入っており、油絵を好んで描いており、鳩祭で団扇(うちわ)を作成したことなど、楽しい思い出です。附属中・高校生には、医療は社会貢献の大切な分野ですので、医師を目指す方には大いに歓迎で、激励したい、と申し上げたいです。
中野市立南宮中学出、高校第55回(平成15年理数科)のご卒業。
平成21年自治医科大学を卒業され、「心の医療センター駒ヶ根」
等で研修医として勤務。今春5月に「ちくまこころのクリニック」
を開院された。
畏友、南澤道人方丈を祝す
元山口内科小児科医院・院長 山口 昭
旧制屋代中第18―5回、松本医専(信州大学医学部の前身)卒業、医学博士。旧更級郡羽尾村のお生れで、旧姓は高村。
コロナ感染症の感染拡大が懸念され、社会的にも不安で厳しい昨今、この度、私共の同級生(屋代中学18回卒)南澤道人方丈が、永平寺貫首と曹洞宗管長にご就任されますことは、誠に大きな喜びに存じます。
◆
道人方丈とは、私の生家(高村)が、彼の龍洞院の檀家の一員であったり、旧制屋代中学の同級でもあり、多くのご縁を頂いております。戦後、私の父親の他界にあたっても、道人さんにお世話になったものです。
彼は、温厚なお人柄ですが、意志のお強い、しっかりとした方、かつ学生時代から大変優秀な賢人です。当時の中学には申合わせがあり、質実剛健がモットーでしたから、通学距離が4キロ未満は徒歩通学で、自転車は不可でした。また真冬でもオーバーコートを着ないということで、お互い通学をしていました。
私が驚いたことは、太平洋戦争末期(昭和19年頃)に、ご長男である道人さんが、自ら海軍兵学校に進むと言われたことです。私には、その理由がどうしても判らなかったものでした。後で知ったことですが、これは、彼には兄弟が7人おり、ご尊父も病身でおられたことを自覚され、また道人さんご本人も海が好きであったことによるものでした。お父様は、道人さんの海軍兵学校に出発の際にも笑顔で見送られ、その1か月後お亡くなりになられました。お母親も1年後にお亡くなりになられ、当時彼のご心痛を想い、心よりご冥福をお祈り申し上げたものです。
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道人さんは、国内外で卓越された修行の成果を上げておられ、平成20年には、ご本山の副貫首に任命され、お山と兼ねることになりました。また札幌中央寺の住職として、国外ではインドや中国の寺院におけるご貢献、特に日韓佛教文化交流大会を主催され、その総裁を務められました。フランスにおいては、フランス佛南山観照寺を建立され、修行の場として多くのお弟子さんをお持ちです。中央寺での16年に及ぶお努めは、勿論、今回の御栄進に無関係ではなく、ご同慶の至りです。
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道人方丈は、ご高齢であることを少々気にされていらっしゃるようですが、私も同じ93歳であり、道元禅師のお示しでも、「任に当たって、他に譲りがたし」という言葉があります。道人方丈は、札幌中央寺を発たれる最後のご挨拶で「例え一日だけの命であっても、命の限りお山に精進しなければ、と心に誓った。」と仰せられました。どうか、ご健康に留意され、何時までも末永くお元気であられますよう、心よりお祈りしております。
見えぬ感染症……新型コロナウイルスとの戦い
国立感染症研究所・主任研究官 松岡佐織 氏
今なお流行が収束する見通しが立っていない、この感染症が厄介なのは、「新型」である故、ウイルスの特性がわからないこと、感染しても無症状のことがあり、「見えぬ感染の進行」が拡大防止を難しくしている。一方、基礎医学研究者は国内の重症化率の低さに着目し、我が国の特殊事情の機序に迫ろうと研究を進めている。
ワクチン開発については、令和2年(2020年)12月、英国で新型肺炎に対するワクチンの第一号が承認され、感染拡大防止の一手として大きな期待がかかっている。ワクチンには、発症予防ワクチン、治療ワクチンがあり、承認されたワクチンは、症状を軽減する効果が期待され、治療ワクチンも重症化を抑え死亡率を低下させるなどの効果が期待できる。今後、接種後に充分な免疫が誘導されたかなど、長期的な視点で、検証を進めていくことが我々の任務と考えている。
篠ノ井西中出、高校第43回。東京医科歯科大医学部から東京大学大学院で医学博士。2009年「米国レトロウイルス会議若手研究者賞」を受賞され、主としてエイズワクチン開発分野でご活躍中。
英語入試改革に思う……私の英語学習法
関西学院大学教授(国際関係論)櫻田大造 氏
屋代高校で身に付けた英語力が、その後合計7年近くの米・加・ニュージーランドでの学生生活や研究者生活に極めて役立った。英語学習は、ウェブが使える
今や、どこにいても、マイペースで、スマホ・タブレット・パソコンを利用して、勉強することができるが、基礎力は、やはり語彙数と文法だ。語彙数が5000
語を超え、文法も一通り終えたら、興味があるような内容の文章を、たくさん読んでいくこと。
リスニング能力向上のためには、ともかく意味の分かる英文を聞きまくること。ユーチューブとかのウェブでもCDでもいいので、聞きつつ、可能ならシャドー
イングと呼ばれる、聞きながら話す発音練習もやってみることを薦める。いずれにしても、その基礎力は高校時代に身につけたように思う。
篠ノ井西中出、高校第31回。上智大外国語学部からシアトル大、トロント大大学院でカナダ外交政策を専攻され、国際関係論がご専門で、大阪大学博士(国際公共政策)。国連英検特A級、英検1級、TOEFL 637点(PBT)取得。
The People of the Year 「今年度活躍した人」賞に7氏、生徒3名
永平寺貫首に 南澤道人氏(中 18 回)
曹洞宗大本山・永平寺の最高位である貫首に、旧制中第18回の南澤道人氏(93歳)が就任された。祝意として同窓会より祝電を差し上げたところ、下記のようなご丁重なるご書面と共に、九谷焼茶碗(写真)をご恵贈いただきました。
謹言
大本山永平寺不老閣
福山諦法大禅師猊下の御退董により、拙衲浅学非才にもかかわらず本山八十世の猊座を汚すこととなり、誠に僭越の至りと慙愧に堪えません。然し乍ら任に当たって他に譲り難しとのお示しもあり、老残の身をもって入山致しましたからには一日たりといえども命の限り努めて参らねばと存じます。
皆様方には何かとお世話になることと恐縮に思いますが、何卒よろしく御教導賜りますようお願い申し上げます。
尚、入山の記念に粗品ですがご笑納下されば幸甚に存じます、寿の字は不老閣にあやかり命長しの意を込め、皆様のご多祥をお祈りして書き入れました。
敬具
令和二年九月吉日
南澤道人九拝
いつでも、夢と向上心を もって前進しよう
初めまして、吉野悦子と申します。屋代高校を卒業し、はや20年以上たちました。卒業後は自治医科大学医学部で学び、現在は内科医として働いています。
よしのえつこ氏(旧姓中曽根) 上山田小―戸倉上山田中出、高校第48回。自治医科大学医学部を卒業後、診療所、自治医科大学附属病院、聖路加国際病院等の勤務を経て、現在東京亀田総合病院・京橋クリニック勤務。呼吸器内科及び総合内科専門医で、主な論文に「気管支肺胞洗浄液のRT-PCR検査により診断しペラミビルが有効であった重症インフルエンザA(H1N1)肺炎の1例」などがある。
私にも最後の夏 (甲子園県予選)がなかった
40数年前の夏の日に想いを馳せています。
♪空を切る球の命に 通うもの 美しくにおえる健康、若人よいざ 緑濃き しゅろの葉かざす 感激を瞼に描け ああ栄冠は君に輝く ♪
(註 1)たきざわようじ氏。高30回、千曲市立埴生小学校教頭から、平成28年度昭和女子大学に移り、教育相談・カウンセリング学を講ずる。同29年5月逝去。
やまもとのりあき氏。松代中出、高
30回、高校時代は投手、四番打者で活躍。新潟大学医学部に進学し、昭和55年(1980年)の東日本医学大会で決勝戦を完封し、優勝投手に。「骨組織に対する薬剤と運動の相互作用」で医学博士。米国ユタ大学整形外科教室への留学を経て現職。日本体育協会公認スポーツドクター、新潟市野球連盟副会長。「新潟野球サミット2018」で、栗山秀樹監督(日ハム)・長島三奈氏と共に講演して、全国に先駆けて高校野球投手の球数制限導入を提唱した。
令和2年 春の叙勲受章者
敬称略
・瑞宝中綬章 鳥羽栄治(高11回) 上田市
● 瑞宝小綬章 赤地憲一(高17回) 千曲市
● 瑞宝双光章 渡邉 稔(併中1回) 長野市
● 瑞宝双光章 小林和久(高21回) 所沢市
令和元年秋の叙勲
The People of the Year 「今年度活躍した人」賞に6氏3団体
宝塚歌劇団星組 朱紫令真(あかしれいま)さん
令和元年春の叙勲
小林嘉征君(高 12 回)の 叙勲を祝う会
The People of the Year 賞に10 氏4団体 「今年度活躍した人」
秋の叙勲受章者
春の叙勲受章者 (敬称略)
矢羽勝幸氏(高16回)信毎賞受賞
秋の叙勲受章者 (敬称略)
平成29年度 The People of the Year 「今年活躍した人」賞
37 歳の北大教授 前田理 氏
SBC信越放送の社長に就任された 渡辺雅義氏
松本市丸ノ内中学出、高校第26回のご卒業。高校時代は陸上班で活躍され、中央大学法学部を経てSBC信越放送に入社。主に業務畑を歩まれ、総務部長、総務局次長、常務取締役テレビ局長等を歴任し、平成29年6月に取締役社長に就任された。
叙勲受章者
平成28年度秋の叙勲
旭日小綬章
平成29年度春の叙勲
平成 28 年 秋の叙勲受章者
平成28年度 The People of The Year
春の叙勲受章者
旭日双光章
青木 崇様(高9回) 千曲市桑原
東大の箱根駅伝出場を夢見る 瀧澤 剛 さん
― はい、3 年生の時、3000m障害で9分22秒53の記録で県大会で優勝して、北信越大会でも3位に入り、インターハイに出場できました。とても大きな思い出として残っています。
○信州新町からの通学、陸上との両立は大変ではなかったでしょうか。
―陸上班の練習を6時30分に終え、篠ノ井駅まで自転車を走らせ、7時のバスに乗りました。8時に自宅に着くと9時までの60分間で、食事・入浴やその他全てを済ませます。そのあと2時間の学習を毎日心がけました。
○時間の使い方に大いに学ぶものがあります。東大の陸上運動部ではどのような生活を送られましたか。
―当時も今も、箱根駅伝大会に出場することを大きな目標の一つにしていますね。毎年夏に2?3週間北海道で行われる長距離合宿の参加など、大学の部活ならではの思い出が強く印象に残っております。また、大学の部活動は大規模なため、高校時代とは違い、数十人もの仲間と切磋琢磨しながら練習できたのもよい思い出です。怪我のため練習ができないことが多く、悔しい思いをしましたが、陸上部では大変貴重な経験をさせていただきました。
○文武両道をめざす、屋高生・附属中生にアドバイスをお願いします。
―部活と勉強を両立することは困難かもしれませんが、どちらも目標を持ちながら全力で取り組めばきっと成果がでるはずです。
最初は思うような結果が出ずに諦めたくなるかもしれませんが、粘り強く努力を継続してください。必ず大きな成果が得られるはずです。高校生である皆さんは、社会に出て働くことの
イメージはまだできないかもしれません。
先生方や両親と相談しながら、悔いのない進路を歩んでほしいと願っています。
信州新町中出身で高校第60回(普通科)の卒業。屋代高(陸上班)・東大(陸上運動部)を通して中・長距離選手として活躍。高校時代は3000m障害で9分22秒53で県優勝しインターハイ出場。東京大学理科一類に進み、工学部で化学生命工学を専攻。大学院工学研究科では「ヒト由来膜タンパク質の無細胞発現と膜局在化傾向の網羅的解析」により修士学位を取得。
大学でのベストタイムは5000m、15分30秒98。今春、東京ガス ㈱ に入社。
県弁護士会会長に就任された 柳澤修嗣氏
―弁護士としての活動は時間的に大幅に制約を受けますね。しかし弁護士法では「社会秩序の維持及び法律制度の改善」を弁護士の使命と定めていますから、こうした活動は、いわば我々の使命と考えています。
○弁護士になられた直接の動機は「悔しさ」にあると伺いましたが。
―はい、司法試験を受けようとした時、先輩から「お前は受からないと思うから、試験は止めて就職したらどうか。」と言われました。今考えると、その当時の自分は、先輩の言われるレベルであったと思います。でも「今に見ていろ!」というメラメラと心に燃え上がるものがありました。それまで遊び半分であった弁護士になろうという気持ちが、それ以降本気になったのです。
○「屋高フォーラム」の中での「能力は努力によって獲得される」というお言葉を思い出しました。
―努力が継続できるには、素晴らしい先生に出会ったり、出来事に感動するとか、そういう中でそれが強い決意や意欲となります。
倦まず飽きまずコツコツと努力を重ねていき、ふと周りを見回すと、とてもかなわないと思っていた人を超えていたりするものです。能力は獲得されるものですね。
柳澤修嗣 氏
更北中出身で、高校第28回のご卒業。
高校時代はバレーボール班で活躍され、中央大学法学部を経て、平成2年に司法試験合格。同6年長野市内に柳澤法律事務所を開設。平成16年第1回「屋高フォーラム」の講師を務めた。平成28年4月、県弁護士会会長・日弁連理事に就任。同窓会副会長。
瀬在幸安博士「初代名誉市民」顕彰式典が開催される
この中で先生は、フルブライト留学生としての研修時代以来の卓越された幾多のご功績について披瀝された。
同窓会による祝賀会を開催
翌11月1日(日)には、同窓会主催の「瀬在博士名誉市民祝賀会」が上山田ホテルにて開催された。宮﨑和順名誉会長、竹内長生前副会長、横川正秀前事務局長ほか、旧・現役員ら12名が出席して、先生の偉業を讃えるとともに、同窓会としても「名誉会員」の称号をご受諾いただいたことに、謝意を申し上げた。
母校を訪問、講演される
11月2日(月)には、母校を訪問して全校生徒にご講演をいただいた。講演を聴いて、2年生の伊藤史也君は「私も医師になる目標を持っているが、瀬在先生のような偉大な先輩がいることに驚いた。」(『千曲市報12月号』)と語った。
The People of The Year
信州大学工学部長に 就任された半田志郎氏
瀬在幸安氏、北澤俊美氏 同窓会名誉会員に
瀬在幸安氏(高校第1回)
“女医ナー〟宮澤有紀さん、学生日本一
人 ・ インタビュー
春の叙勲受章者
瑞宝小綬章
旭日双光章
旭日双光章
秋の叙勲受章者
The People of The Year に7氏を選出
氏 名・現職等(敬称略) | 備 考 |
飯島 勇三(中11回) 飯島耳鼻咽喉科・医学博士 | 94歳にしてなお、姨捨伝説の研究に打ち込まれる。 |
半田 志郎(高26回) 信州大学工学部長に選任 | 通信工学が専門で、平成26年2月に打ち上げられた超小型人工衛星「ぎんれい」の可視光通信システムを指導。 |
松岡 佐織(高43回) 国立感染症研究所 主任研究官 | 第11回屋高フォーラムにおいて、エイズやエボラ出血熱について最新の研究成果を講演。 |
湯本 法弘(高50回) 京都大学からニューヨーク 大学博士研究員 | 筋委縮症の原因分子の発見論文が、英科学誌の『ネイチャー』誌(第489号)に掲載される。 |
宮澤 有紀(高61回) 富山大医学科4年 | 陸上日本インカレ女子100mで11秒68を出し2位になり、ナショナルチーム入り。モロッコで開催のコンチネンタルカップに出場。 |
中島 菜々(2の5) 海野沙弥香(2の7) (在校生) | TVの「全国高等学校クイズ選手権」に出場。母校を全国に紹介。 |